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フランソワ・レオンス・ヴェルニー(''Francois Leonce Verny'' 、1837年12月2日 - 1908年5月2日)はフランスの技術者。1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。 == 生涯 == === フランスから中国 === 1837年12月2日、フランス中部のローヌ=アルプ地域圏に位置するアルデシュ県のオーブナで生まれた。父は製紙工場を経営するマテュー・アメデ・ヴェルニー、母はアンヌ・マリー・テレズ・ブランシュで、5男2女の兄弟の三男だった〔宮永(1998: 64)〕。就学年齢の8歳になるとオブナの町で神父が経営するコレージュに通い、平均的な成績をおさめていた〔宮永(1998: 65)〕。やがてリセへの進学を目指して家庭教師の指導を受けると成績が向上し、1853年に16歳でリヨンのリセ・アンペリアルに入学している〔。リセでは厳しいカリキュラムをこなし、1854年には数学で学年1位となっているが化学の成績は振るわなかったという〔宮永(1998: 66)〕。余暇にはバイオリンや馬術を習い、1856年にかねて志望していたエコール・ポリテクニークへ合格者115名中64位という成績で入学した〔。 エコール・ポリテクニークでの生活については不明な点も多いが、おおむね良好な成績で1858年にヴェルニーは同校を卒業した〔宮永(1998: 69)〕。同年、に入り海軍技術者となった〔。同校在学中はしばしば旅に出て、1858年夏はオルレアンやボルドー、トゥールーズ、1859年6月にはイタリア独立戦争中にジェノヴァやフィレンツェを訪れている〔宮永(1998: 71)〕。工学学校卒業後、1860年8月にブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事した〔宮永(1998: 72)〕。 一方、1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めた〔。この建造監督への就任をヴェルニーは受諾し、1862年9月に辞令を受けてマルセイユからアレキサンドリア、スエズを経由して上海に向かった〔宮永(1998: 73)〕。寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には4隻の砲艦が全て竣工した〔宮永(1998: 74)〕。この功績により、翌年レジオンドヌール勲章を受章している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レオンス・ヴェルニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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