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フランソワ=ジョセフ・ゴセック : ミニ英和和英辞書
フランソワ=ジョセフ・ゴセック[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

フランソワ=ジョセフ・ゴセック : ウィキペディア日本語版
フランソワ=ジョセフ・ゴセック[らん]

フランソワ=ジョセフ・ゴセックFrançois-Joseph Gossec,1734年1月17日 - 1829年2月16日)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家指揮者。長い生涯の間に、バロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した。
現在では一般的にヴァイオリンのための愛らしい小品「ガヴォット」1曲によって知られている。彼は交響曲の大家で30曲近くを書いた。パリ音楽院創立の際、作曲の分野における教授として招かれ、教育家としての実績もある。今となっては彼の存在は埋もれてしまったという感があるが、「フランス交響曲の父」としてその業績は忘れがたいものがある。共和政・帝政時代の革命歌の作曲家としても歴史的に名を残している。
== 生涯と作品 ==
オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)の中にあったフランスの飛び地であるエノー州のヴェルニー村(Vergnies)の小さな農家に生まれる。幼児期から音楽への強い志向を見せ、アントウェルペンの聖歌隊員に加わる。1751年パリに行き、ジャン=フィリップ・ラモーに見出される。ラモーの裕福なパトロン、ラ・ポプリニエールの私設楽団の指揮者に任命され、フランスで器楽曲の研究をやり直すべく決心する。
1754年に最初の交響曲が上演される。ゴセックはコンデ公オーケストラ指揮者として、いくつかのオペラや自作を上演する。目覚しい成功によってフランス音楽に自らの影響力を見せ付けた。1760年に、1時間半を要する大作の《レクィエム》を初演すると、一夜にしてゴセックの名は有名人の仲間入りを果たした。この作品を称賛したモーツァルトは、1778年パリ滞在中にゴセックを訪ねて、会見記を父親に書き送った。曰く、「とてもいい友人になりました。とても素っ気ない人でしたが。」
ゴセックは1770年に「コンセール・デ・ザマトゥール''Concert des Amateurs'' 」(愛好家のための合奏団の意)を設立し、1773年にはシモン・ルデュックやピエール・ガヴィニエスとともに「コンセール・スピリテュエル''Concert Spirituel'' 」を再編成した。この演奏会のシリーズでゴセックは、自作の交響曲だけでなく、同時代人、とりわけハイドンの作品を指揮したので、ハイドン作品は次第にパリで人気となり、ついにはゴセックの交響楽を凌ぐに至った。
1780年代にゴセックは交響曲の作品数を減らしてゆき、オペラに集中するようになる。1784年に「エコール・ドゥ・シャン''École de Chant'' 」(唱歌伝道所の意)を設立、フランス革命の際には、エティエンヌ・メユールとともに救国軍の楽隊指揮者を務め、1795年パリ音楽院が設立されると、ルイジ・ケルビーニと、そしてまたもやメユールとともに、視学官に任命された。フランス学士院の最初の会員に選ばれるとともに、レジオンドヌール勲章を授与されている。
1815年ワーテルローの戦いナポレオンが敗北すると、ルイ18世によってパリ音楽院はしばらく閉鎖に追い込まれ、81歳のゴセックも引退を余儀なくされた。音楽院近くで年金暮らしを続けながら、最後の作品となる3曲目の《テ・デウム》の作曲に1817年まで取り組んだ。
フランスの外ではほとんど無名であり、おびただしい数の作品は、宗教音楽も世俗音楽もともに、同時代の、より有名な作曲家の陰に隠れていった。それでもゴセックは多くの者にとって、器楽曲復興の強力な立役者だった。
ゴセックはパリ郊外のパシー(Passy)に没した。葬儀には、かつての同僚ケルビーニも駆けつけた。墓はペール・ラシェーズ墓地にあり、グレトリと、かつての盟友メユールのそばに葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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