翻訳と辞書
Words near each other
・ フランチェスコ・ディ・メディチ
・ フランチェスコ・デッラ・ロッカ
・ フランチェスコ・デル・コッサ
・ フランチェスコ・デ・サンクティス
・ フランチェスコ・デ・タシス
・ フランチェスコ・デ・タシス1世
・ フランチェスコ・デ・タシス2世
・ フランチェスコ・デ・ピネード
・ フランチェスコ・デ・メディチ
・ フランチェスコ・デ・ヴィコ
フランチェスコ・トスティ
・ フランチェスコ・トッティ
・ フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ
・ フランチェスコ・トルド
・ フランチェスコ・ドゥランテ
・ フランチェスコ・バラッカ
・ フランチェスコ・バルサンティ
・ フランチェスコ・バルディ
・ フランチェスコ・バルトロメオ・コンティ
・ フランチェスコ・パオロ・トスティ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フランチェスコ・トスティ : ミニ英和和英辞書
フランチェスコ・トスティ[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

フランチェスコ・トスティ ( リダイレクト:フランチェスコ・パオロ・トスティ ) : ウィキペディア日本語版
フランチェスコ・パオロ・トスティ[らん]

サー・フランチェスコ・パオロ・トスティ(Sir Francesco Paolo Tosti, 1846年4月9日 - 1916年12月2日)は、イタリア作曲家、声楽教師。歌曲の作曲家として知られる。
== 生涯 ==

アブルッツォ州キエーティ県オルトーナに生まれる。幼くしてヴァイオリンの神童として知られ、1858年、12歳にしてナポリ音楽院に入学、ヴァイオリンと作曲の研鑽を続ける。当時の作曲の師にはサヴェリオ・メルカダンテも含まれる。在学当時には、教官助手も務めていた。1866年、ヴァイオリンでディプロマ取得し、その時期から歌曲を作曲しはじめている〔『トスティ ある人生の歌』 p17。〕。その後、20代前半で故郷オルトーナに戻り、オルガン演奏・指揮者の職に就いた(教官助手の激務などから健康を害し、静養に入っていたという説もある)。そこで書き溜めた小歌曲集が認められ、1875年頃からはローマをはじめとするイタリアで盛んにサロン用歌曲を発表する。やがてトスティはイタリア王室の声楽教師、1880年ごろからはロンドンに移住しイギリス王室の声楽教師となる。1906年には英国臣民となり、1908年には準男爵に叙せられた〔同 p86。〕。1912年にイタリアに戻る。狭心症に1915年ごろから苦しめられている中でも、少なくとも1916年(没年)の秋まで作曲していたと見られる〔これらは1919年にリコルディ社から出版されている。〕が、その年の初冬に病状が悪化し、12月2日、ローマで他界した〔同 pp96-97。〕。
英語は一言も解さなかったとの説もあるが、母語のイタリア語のみならず、英語フランス語を原詩とする多くの歌曲の小品を作曲、その多くが今日でもリサイタル用ピースとして愛されている。イタリア語に関しては、17歳年下の詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオとのコラボレーションは少なくとも33曲におよび、中でも歌曲集「アマランタの4つの歌」が特に有名である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランチェスコ・パオロ・トスティ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Paolo Tosti 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.