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フランツ・フォン・ヴェラ : ミニ英和和英辞書
フランツ・フォン・ヴェラ[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

フランツ・フォン・ヴェラ : ウィキペディア日本語版
フランツ・フォン・ヴェラ[らん]

フランツ・フォン・ヴェラFranz von Werra1914年7月13日 - 1941年 10月25日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍エース・パイロットである。ヴェラは英国上空で撃墜され捕虜となったが、カナダの捕虜収容所から脱走しドイツへの帰還に成功した唯一の枢軸国側の捕虜であると広く認識されている。
しかし、1940年7月ポーランドの兵員輸送船(恐らく元旅客船の「ソビエスキ(''Sobieski'')」)からセントローレンス川へ跳び込んで脱走し、米国メキシコイタリアを経由してドイツに帰還したと云われるUボート乗員のヴァルター・クルト・ライヒ(Walter Kurt Reich)の名前が2人目に挙げられている。
== 経歴 ==
フランツ・フォン・ヴェラは1914年7月13日スイスヴァレー州カントン内の街ロイクで貧しい両親の下に生まれた。後にヴェラと彼の姉妹はドイツの貴族の家庭に引き取られた。
1936年にフォン・ヴェラはドイツ空軍に入隊し、戦争初期のフランス侵攻では第3戦闘航空団(JG 3)に所属していた。しばしば悶着を起こす「プレイボーイ」の素行や過度の自己顕示(彼は部隊のマスコットとして飛行場で飼っていたライオンのシンバと共にドイツの報道機関に写真を撮られている)にも関わらずフォン・ヴェラは有能な将校としてJG 3/第II飛行隊の副官となった。彼には名乗る資格は無かったが「バロン」の称号も使用していた。
フォン・ヴェラは1940年5月バトル・オブ・ブリテン期間中に最初の4機を撃墜し、8月25日の出撃では地上駐機中の5機を含む9機の英空軍(RAF)機を破壊したと申告したが、空中での4機の戦果しか認められなかった。1940年9月5日にフォン・ヴェラの搭乗するメッサーシュミットBf109ケント上空でRAF 第603飛行隊バージル・ゲラルド・'スタプメ'・スタプレトン少尉に撃墜された。スタプレトンが止めの一撃を加える前にRAF 第41飛行隊のジョージ・ベニオンス少尉がフォン・ヴェラの乗機に損害を与えていた。フォン・ヴェラは野原に胴体着陸し、近隣にいた陸軍部隊の武器を持たない料理人に捕らえられ、最終的にはロンドン地区戦争捕虜収容所(the London District Prisoner of War Cage)に送られた。
フォン・ヴェラは、最初にメイドストーンにあるローヤル・ウエスト・ケント連隊の傍のバラックに収容され、ここで最初の脱走を試みた。フォン・ヴェラが穴掘り作業に従事させられている時は監視についている憲兵のデニス・リックウッド(Denis Rickwood)二等兵は、フォン・ヴェラがつるはしを持っているために小型の警棒を手にして常に俯いていなければならなかった。フォン・ヴェラは2週と4日の間尋問され、最後にロンドン地区戦争捕虜収容所(the London District Prisoner of War Cage)に送られた。その後、ウインドミアコニストン・ウォーターの間のランカシャー地区のファーネス・フェルスにあるグライズデール・ホール(Grizedale Hall)の第1戦争捕虜収容所に送られた。
1940年10月7日にフォン・ヴェラは収容所の外で日中の散歩をしている時に2度目の脱走を企てた。定例の休止時に果物カートが注意を逸らし、その他のドイツ兵捕虜が手助けしたことにより石垣を乗り越えて野原へ逃走した。警備隊は近隣の農場とホーム・ガードに警告を発した。10月10日の午後に2名のホーム・ガード兵がホガース(hoggarth:その地域で一般的なを吊るし寝かしておく小さな石屋根)の下で雨宿りをしていたフォン・ヴェラを発見したが、彼は素早く脱出し夜の闇に消えた。10月12日に彼が滝壷を登っているところを目撃され、その地域は包囲されて最終的にフォン・ヴェラは地面の窪みの中でほぼ全身泥まみれになっているところを発見された。フォン・ヴェラは21日間の独居営倉入りを宣告され、その後11月3日ダービーシャースワンウィックにある第10捕虜収容所に移送された。
ヘインズ収容所(the Hayes camp)として知られる第10捕虜収容所ではフォン・ヴェラは、脱走用トンネルを掘っている「スワンウィック掘削社(''Swanwick Tiefbau A. G.'')」と名乗る捕虜の一団に合流した。1カ月後の12月17日にトンネルは完成し、収容所の偽造担当者は脱走者に現金と偽の身分証明書を持たせた。12月20日、フォン・ヴェラと他4名の脱走者は対空砲火と収容所の聖歌隊の音に紛れてトンネルで脱走した。フォン・ヴェラ独りを除いた他の全員が数日後に再度捕まった。フォン・ヴェラは自身の飛行服を所持しており、オランダ空軍パイロットのヴァン・ロット(Van Lott)大尉という架空の人物に化けることにした。彼は気さくな機関車の運転手に自分は墜落した爆撃機パイロットで自分の部隊に帰りたいので一番近い空軍基地に連れて行ってくれるように頼んだ。コドノー公園駅の地元駅員は疑いを抱いたが、最後にはノッティンガム近郊ハックナルにあるRAFの飛行場への移動を手配してやった。警察官も彼を問い質したが、フォン・ヴェラは警察官に自分に悪意が無いことを信用させた。ハックナルでは飛行隊長のボニフェイス(Boniface)から身分を問い質され、自分はアバディーン近郊ダイスの基地に所属していると答えた。ボニフェイスがこの答えを確認している間にフォン・ヴェラは席を立ち、直近のハンガーに駆け込んで整備員に自分は試験飛行の許可を得ていると言ってみた。ボニフェイスは間に合い、彼に銃口を向けて逮捕した。フォン・ヴェラはヘインズ収容所に送還され、武装した警備兵の監視下に置かれた。
1941年1月にフォン・ヴェラは多くの他のドイツ兵捕虜と共にカナダへ移送された。彼のグループはオンタリオ州スペリオル湖北岸の捕虜収容所に収容されることになったところでフォン・ヴェラは当時まだ中立国であった米国への脱出計画を練り始めた。1月21日に捕虜移送列車がモントリオールを出発するとフォン・ヴェラは再び他の捕虜達の助けを借りて窓から跳び下り、セントローレンス川から30マイルの距離にあるスミシズ滝に辿り着いた。その他7名の捕虜が同じ列車から脱走を試みたが、直ぐに逮捕された。フォン・ヴェラがいないことは翌日の午後まで発覚しなかった。
苦労して凍りついたセントローレンス川を渡るとフォン・ヴェラは米国、ニューヨーク州オグデンスベルグで国境を越え、そこで警察に身分を明かした。入国管理当局が不法入国の罪で彼を訴えたことでフォン・ヴェラは地元のドイツ領事に連絡を取った。これにより彼はマスメディアの注目を集めるようになり、マスメディアにはかなり脚色した話を語った。米国とカナダの当局が身柄引き渡しの交渉を行っている間にドイツの副領事が手引きしてフォン・ヴェラをメキシコに渡らせた。フォン・ヴェラはブラジルリオデジャネイロスペインバルセロナ、イタリアのローマと辿り、1941年4月18日についにドイツに帰り着いた。
フランツ・フォン・ヴェラは英雄となりアドルフ・ヒトラーから騎士鉄十字勲章を授与され、結婚もした。フォン・ヴェラは英国での自分の経験を基にして捕虜になった敵軍パイロットのドイツ側の尋問技術の向上に役立てた。その後、フォン・ヴェラはドイツ空軍に復帰し、当初は東部戦線に配属され1941年7月には総撃墜記録を21機にした。所属部隊の第53戦闘航空団(JG 53)がロシアから撤退する頃にはフォン・ヴェラは北海上空での哨戒飛行を行っていた。
1941年10月25日、ドイツに帰還して僅か7カ月後にフランツ・フォン・ヴェラの搭乗機はオランダフリッシンゲン近くの北海上空で行方不明になった。最も考えられる原因はエンジン故障であり、フォン・ヴェラの遺体は発見されなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フランツ・フォン・ヴェラ」の詳細全文を読む




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