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フランツ・ヨーゼフ・プリンツ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス(独:Franz Joseph Prinz von Thurn und Taxis, 1893年12月21日 レーゲンスブルク - 1971年7月13日 レーゲンスブルク)は、ドイツの貴族、実業家。家長(1952年 - 1971年)。全名はフランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・マリア・アントニウス・イグナティウス・ラモラル(''Franz Joseph Maximilian Maria Antonius Ignatius Lamoral Prinz von Thurn und Taxis'')。 == 生涯 == トゥルン・ウント・タクシス侯アルベルトとその妻でオーストリア大公ヨーゼフ・カールの娘のマルガレーテ・クレメンティーネの間の長男として生まれた。洗礼式にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が出席した。 家庭教師に教育を受け、後にストラスブール大学とライプニッツ大学で学んだ。第1次世界大戦が始まると学業を中断し、プロイセンのエリート部隊にあたる近衛部隊に入隊。戦時中、中尉にまで昇進し、戦争が終わるとレーゲンスブルクに帰った。オーバープファルツのノイエゴルフスハイムの城館に居を構え、トゥルン・ウント・タクシス家の財産を管理運営した。また狩猟、歴史、芸術などの趣味を追及する生活を送った。のちには居城にある私的な図書館をトゥルン・ウント・タクシス侯宮廷図書館として州に遺贈している。 1939年、ナチス・ドイツ政府の下でポーランド侵攻に従軍。翌1940年にはフランス侵攻にも従軍している。フランス駐屯軍の一員として2年半を過ごしたが、1944年にアドルフ・ヒトラーが出した「ドイツ国防軍に所属する貴族の無能」を弾劾する布告を受け入れたヴィルヘルム・カイテル元帥の命令で除隊処分となった。一人息子で後継ぎのガブリエルは、1942年12月17日のスターリングラードの戦いで戦死した。 第2次大戦後、家産を経営するかたわら、レーゲンスブルクの歴史的景観とトゥルン・ウント・タクシス家の本拠にあたる同市のエメラム修道院宮殿の保護活動に取り組むようになった。1963年、レーゲンスブルク市の「経済的、社会的、文化的な諸問題に対する大いなる貢献」によりレーゲンスブルク名誉市民となる。1971年に亡くなり、エメラム修道院内の墓所に葬られた。レーゲンスブルクには彼の名前に因んだ「フランツ・ヨーゼフ侯世子通り(Erbprinz-Franz-Joseph-Straße)」がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランツ・ヨーゼフ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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