|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
フランツ・ベンダ(Franz Benda)、またはチェコ語でフランティシェク・ベンダ(František Benda, 1709年11月22日 - 1786年3月7日)は、ドイツの作曲家、ヴァイオリニスト。 == 生涯 == フランツ・ベンダはハンス・ゲオルク・ベンダ(1686-1757)とその妻ドロテア(フランティシェク・クサヴェル・ブリクシの父の従姉)の間に、長男として生まれた。父は亜麻布織のマイスターで、職業音楽家ではなかったが、居酒屋や結婚式でよく演奏していた。その父からベンダはオーボエ、シャルマイおよびツィンバロムを習ったほか、地元教会のカントル、アレクシウスにオルガン、作曲および歌唱を習った。ベンダは幼少期にプラハのイエズス会で学んだが、10歳でドレスデンへ移り、ここで教会の聖歌隊員となる。一年半後、ホームシックとなり一旦家族のもとへと帰るが、その後再びプラハに赴き、15歳まで教会でアルト歌手を務めた。このプラハ滞在中の1723年、神聖ローマ皇帝カール6世の戴冠式のために作曲されたオペラ《コンスタンツァとフォルテッツァ》の上演に、ベンダは歌手として参加している〔このオペラは、ヨハン・ヨゼフ・フックスによって作曲された。クヴァンツの報告によれば、そのオペラは100人の歌手と200人の器楽奏者によって、野外で上演された壮麗なもので、音楽の様式は劇場風というよりは教会風であったという。東川清一訳編「ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ」『音楽家の自叙伝―クヴァンツ/ベンダ/E・バッハ/ツェルニー』(春秋社、 2003年)、24-80頁、うち42-43頁。〕。 アルトの声域を失った後は故郷へと一旦戻るが、1726年に、当時仕えていたクライナウ伯爵の推薦でウィーンへと旅立った。その後は各地を転々としながら音楽活動を続けていたが、1730年に、ポーランドのワルシャワ郊外に居を構える群知事の宮廷に採用され、2年半ばかりその楽団で楽長を務めた。この年、彼はプロテスタントに改宗した。1732年、ポーランド王室楽団にヴァイオリン奏者として採用され、当時のアスグスト2世(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世)の死去に伴い、翌年の1733年、ドレスデンに移動した。その後間もなく、当時のプロイセン皇太子フリードリヒの宮廷楽団に、コンサートマスターとして招聘された。この招聘は、彼のフルート教師であったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツを介して行われた。 ベンダはルッピンに着いた日に、フルートをたしなんでいた王子とともに演奏会を開いた。王子の礼拝堂において、ベンダは首席ヴァイオリニストの地位を得た。その後ベンダはルッピンとラインスベルクでさらに音楽技術を磨くことが出来た(特にクヴァンツやグラウン兄弟の助けによるところが大きい)。1740年5月31日にフリードリヒはプロイセン王に即位し、彼の礼拝堂は全てベルリンやポツダムへ移された。 1739年、ベンダはコルベルクの検閲官の娘エレオノーラ・ステフェインと結婚する。彼女は1758年に亡くなり、その4年後にベンダは彼女の姉妹であるカロリナ・ステフェインと再婚する。双方の妻との間には8人の子が生まれた。 1742年、ベンダの家族はフリードリヒとともにベルリンへ移った。フランツ・ベンダは弟のヨーゼフとゲオルクにはヴァイオリンを、妹のアンナ・フランツィスカには唱歌を教えた。まもなくフランツの弟であるヨハン、ヨーゼフ、ゲオルクも礼拝堂に勤めるようになった。痛風の進行のため、1767年頃からベンダは立ち上がることが困難になっていった。1771年にヨハン・ゴットリープ・グラウンが亡くなった後、ベンダは後任のコンサートマスターとなった。また1773年にクヴァンツが亡くなると、フリードリヒ2世の音楽面での指導者となった。フランツ・ベンダはこの2つの地位についたまま1786年3月7日にポツダムで逝去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランツ・ベンダ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Franz Benda 」があります。 スポンサード リンク
|