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フリオ・リカルド・クルス(''Julio Ricardo Cruz''、1974年10月10日 - )は、アルゼンチン、サンティアゴ・デル・エステーロ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。ニックネームは「庭師」。 == 略歴 == 母国アルゼンチンでデビューした後1997-1998シーズンにフェイエノールトへ移籍、ヘディンガーとして活躍する。その後2000-2001シーズンにボローニャへ移籍しケネト・アンデションの後釜として期待に応える。2003-2004シーズンからインテル・ミラノに移籍し、クリスティアン・ヴィエリ、アドリアーノ、ズラタン・イブラヒモビッチ、そして同郷のエルナン・クレスポ等とのレギュラーポジション争いを繰り広げながらも、出場機会を得れば高い能力と誰とでも組める順応性を発揮する為、歴代監督の信頼は厚い。また長年、インテルのキャプテンとしてプレーしている同国出身のハビエル・サネッティとは1993年に共にCAバンフィールドでプロデビューを果たしている間柄である。 1997年にデビューしたアルゼンチン代表では1998年フランスワールドカップ、2002年日韓ワールドカップ共に落選したが、2005-2006シーズンの驚異的な活躍が認められると2006年に4年ぶりに復帰し、2006年ドイツワールドカップへ出場するメンバーに選出され、2試合に出場した。 このシーズンは締め括りのW杯出場だけでなく、インテルでも他のFW陣が負傷やスランプに苦しむ中コンスタントに出場し、チーム最多かつセリエAにおける自身のキャリアでも最多の15得点を挙げ1988-1989シーズン以来のスクデット(カルチョ・スキャンダルによる繰り上がり優勝)に貢献、チャンピオンズリーグでも自身最多の4得点を挙げる現時点でのキャリアハイと言えるシーズンとなった。 限られた出場時間の中でもきっちりと結果を出す職人肌の選手で、長身と足下の技術を生かしポストマンやシャドーストライカーとして活躍する。また左右どちらの足でも強烈なシュートが打てるため得点能力も高い。インテルは優秀なキッカーがいるため、蹴る機会は多くないが、フリーキックの技術は一級品であり、2003年のユヴェントス戦ではジャンルイジ・ブッフォンからゴールを奪った。この試合を初めユヴェントスとの試合では度々印象的な活躍を見せており、フェイエノールト時代の1997-1998シーズンにもチャンピオンズリーグでユヴェントスと対戦した際に2得点を挙げるほどのユベントスキラーである。また非常に誠実な人柄でファンから愛されている選手である。2007-2008シーズンはエース、アドリアーノの不調により、出場機会が回ってくるようになった。 1996-1997シーズンのCAリーベル・プレート移籍、2003-2004シーズンのインテル移籍と2度に渡り、クレスポがクラブを去った際に後釜として迎えられた。また、2002年W杯ではクレスポとガブリエル・バティストゥータに阻まれ落選し、バティストゥータが引退した後のドイツW杯ではクレスポのバックアッパーとして選出された。そして、大会後の2006-2007シーズンからはクレスポのインテル復帰に伴い2人はクラブでもチームメイトとなった。同国出身でセンターフォワードのクレスポとは10年以上に渡って何かと因縁があるが、クレスポとバティストゥータの関係の方が実績・知名度で大きく上回る為にこの点が指摘される事は殆どない。勿論2人の間に確執はなく、関係は良好である。 2008-2009シーズンはアドリアーノのインテル復帰・復調から、イブラヒモビッチ、アドリアーノに続く3人目のストライカーとして途中出場でよく起用され、貴重な決勝点や同点弾を決める事も多い。また、場合によっては戦術上、2人のセンターフォワードの後ろ側(トップ下)でプレーすることもある。 2009年7月、インテルとの契約が満了したためラツィオへ移籍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリオ・リカルド・クルス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Julio Ricardo Cruz 」があります。 スポンサード リンク
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