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フリオ・セサル・チャベス : ミニ英和和英辞書
フリオ・セサル・チャベス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


フリオ・セサル・チャベス ( リダイレクト:フリオ・セサール・チャベス ) : ウィキペディア日本語版
フリオ・セサール・チャベス

フリオ・セサール・チャベスJulio César Chávez、男性、1962年7月12日 - )は、メキシコプロボクサーソノラ州シウダ・オブレゴン出身。
1984年から1989年にかけて世界タイトル3階級を制覇。最多世界戦出場数37、1試合に於ける観客動員数13万人〔Julio Cesar Chavez, now 85-0, avenged insults to his - 03.01.93 SI Vault〕、歴代3位となる88連勝〔歴代1位はバッキー・マクファーランドと元WBCライト級王者のペドロ・カラスコの92連勝。なお、ハル・バグウェル(175連勝)やバック・スミス(90 - 100連勝)は不鮮明な記録が多いため、歴代1位から外されている。〕、デビュー戦以来90戦無敗(1引き分けを含む)などボクシング史における数々の記録を打ちたて、更に全盛期には、類い希なるタフネスとスタミナを武器に完璧な強さを誇り絶大なる人気を得た。ロベルト・デュランアレクシス・アルゲリョらと並び、ラテンアメリカのボクシング界を代表するスーパースター。1990年代前半、マイク・タイソン低迷後のボクシング・シーンにおいて数々のビッグマッチで活躍し、パウンド・フォー・パウンドの称号を思いのままにした。
二人の息子、フリオ・セサール・チャベス・ジュニア、オマール・チャベスもプロボクサー。
== 来歴 ==
1980年2月15日、プロデビュー(6回KO勝ち)。
43戦全勝の戦績を引っ提げ、1984年9月13日、世界初挑戦。空位のWBC世界スーパーフェザー級王座を同国人のマリオ・マルチネスと争い、8回TKO勝ち。王座奪取に成功した。その後、9度の防衛に成功し、1987年9月に王座返上。
1987年11月21日、WBA世界ライト級王者エドウィン・ロサリオプエルトリコ)に挑戦。11回TKO勝ちを収め、2階級制覇達成。
1988年10月29日、2度目の防衛戦で同国人のWBC王者ホセ・ルイス・ラミレスと統一戦を行い、11回負傷判定勝ち。WBA王座防衛に成功すると同時にWBC王座も獲得した。
1989年5月13日、2団体の世界ライト級王座を保持したままWBC世界スーパーライト級王者ロジャー・メイウェザー米国)に挑戦し、10回TKO勝ち。3階級制覇を達成する。その後、2団体の世界ライト級王座は返上。
1990年3月17日、3度目の防衛戦はIBF世界王者メルドリック・テーラー(米国)との統一戦。IBF王者の技巧の前に終始劣勢。ポイントで大きくリードを許した状態で最終・12回を迎える。KO以外に勝利のすべをなくしたWBC王者は捨て身の猛攻を展開。そして、終了20秒前を切ったところでIBF王者からダウンを奪う。辛くも立ち上がったIBF王者だったが、ここでレフェリーストップがかかりWBC王者のTKO勝ち。KOタイムは2分58秒。あと2秒でチャベスは世界王座陥落と同時に69戦目にしてプロ初黒星を喫してしまうところにまで迫っていた〔残り2秒でのレフェリーストップは賛否両論が起こったが、レフェリーを務めたリチャード・スティールは「テーラーがダウンから立ち上がった際、自分は彼に試合を続けられるかどうかを2度訊ねたが、全く返事がなかった。目も虚ろだったし、ストップに十分値するケースだった。私はレフェリーであり、タイムキーパーではない。選手が危険な状態と見たら、タイムにかかわらず試合をストップする。」と自らの判断は正しかったことを主張した。〕。その後、2度の防衛に成功し、1991年4月にIBF王座を返上。
1993年2月20日、10度目の防衛戦でグレグ・ホーゲンと対戦し、5回TKO勝ちで王座を防衛した。メキシコシティアステカ・スタジアムで開催されたこの試合は観客動員13万人を記録した〔。
防衛回数を11まで伸ばした1993年9月10日、WBC世界ウェルター級王者パーネル・ウィテカー(米国)とウェルター級の規定体重を2ポンド下回る145ポンドのキャッチウェイトで対戦。フルラウンドの激闘の末、引き分け。4階級制覇はならなかったが、無敗はキープ。その後、12月18日にはWBC世界スーパーライト級王座12度目の防衛に成功。
1994年1月29日、13度目の防衛戦でフランキー・ランドール(米国)と対戦。プロデビュー以来初のダウンを奪われた末の12回判定負け。世界王座から陥落すると同時に、91戦目にしてプロ初黒星を喫した。
1994年5月7日、雪辱・王座返り咲きを懸け、ランドールと再戦。ここでも苦戦を強いられたが、8回、偶然のバッティングで試合続行不能となり、負傷判定勝ち。不本意な形ではあったが、4か月前の雪辱を果たすと同時に世界王座返り咲きを果たした。
1996年6月7日、4度目の防衛戦でオスカー・デ・ラ・ホーヤ(米国)と対戦し、4回TKO負け。2度目の世界王座陥落となり、同時に自身初のKO負けを喫してしまう。
1998年3月7日、同国人のミゲル・アンヘル・ゴンザレスと空位のWBC世界スーパーライト級王座を争うが、12回判定で引き分けとなり、王座返り咲きならず。
1998年9月18日、4階級制覇を懸け、WBC世界ウェルター級王者となったデ・ラ・ホーヤと再戦したが、8回終了TKOで返り討ち。
2000年7月29日、コンスタンチン・チューの持つスーパーライト級のタイトルに挑戦するも、6ラウンドTKO負け。
その後、引退を表明しては復帰を繰り返し、リングに上がり続けたが、2005年9月17日の試合で敗れたのを最後に正式に引退した。
2010年世界ボクシング殿堂に殿堂入り。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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