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フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日 - 1934年1月29日)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。 == 経歴 == === 生い立ち === シレジアのブレスラウ(ヴロツワフ、現在ではポーランド領)でユダヤ人の家系に生まれた〔山本(2008) p.129〕。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である〔宮田(2007) pp.27-28〕。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した〔宮田(2007) p.36〕。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した〔山本(2008) p.130〕。 11歳のときにギムナジウムに入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、自作の詩を作った。一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどといった理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた〔。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2、3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、ベルリン大学へと進学した〔宮田(2007) pp.36-37〕。 フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない〔宮田(2007) p.37〕。 ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学でロベルト・ブンゼンに師事し〔宮田(2007) p.41〕〔竹内(2010) p.133〕〔当時のドイツでは途中で大学を変えるのは珍しいことではなかった(宮田(2007) p.41)。〕、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った〔宮田(2007) pp.41-42〕。 兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーバーマンに学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった〔山本(2008) p.130〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリッツ・ハーバー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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