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フリードリヒ・クリスティアン・アントーン・"フリッツ"・ラング(Friedrich Christian Anton "Fritz" Lang, 1890年12月5日 - 1976年8月2日 )は、オーストリア出身の映画監督。父母ともにカトリックだが、母(旧姓シュレージンガー)はユダヤ教からの改宗者だった。 == 略歴 == 第一次大戦後、映画脚本家として映画会社に売り込みをかけていた。そこをドイツの大手映画会社ウーファのプロデューサーであるエリッヒ・ポマーの目にとまり、映画界入り。当時売れっ子監督だったヨーエ・マイの助監督を経た後、『Halbblut』(1919年)で監督デビュー。1920年のカリガリ博士はラングが監督するはずだったが、脚本の改稿だけすることになる。 以後、大長編の犯罪映画『ドクトル・マブゼ』(1922年)、SF映画の古典的大作『メトロポリス』(1927年)、トーキー初期のサスペンス映画『M』(1931年)など、脚本家である夫人テア・フォン・ハルボウとのコンビで、サイレントからトーキー初期のドイツ映画を代表する傑作を手がけた。 ヒトラー政権が成立するとユダヤ人であるラングの立場は危険なものになった。だが、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスはラングの才能を評価し、甘言を弄して亡命を阻止しようとした。そんな中、間一髪で1934年にフランスへ亡命し、さらにアメリカに渡った。この際、ナチスの支持者となったハルボウとは離婚している。ただし以上は本人の言い分で、最近の研究ではむしろラングの側からゲッベルスに売り込みをはかって映画作家としての延命をはかっていたともいう(瀬川裕司『ナチ娯楽映画の世界』)。 ハリウッドに迎えられた後には、ジャンルを選ばずB級のプログラムピクチャーを多く撮ったが、『激怒』(1936年)、『暗黒街の弾痕』(1937年)、ベルトルト・ブレヒトの協力で製作した『死刑執行人もまた死す』(1943年)、『飾窓の女』(1944年)など、フィルム・ノワールの系統を主としたいくつかの注目すべき作品を残した。1950年代末に西ドイツへ戻り、自作のリメイク『怪人マブゼ博士』(1960年)を撮ったが、これが最後の作品となった。1965年に、ジャン=リュック・ゴダールの懇請を受け、ゴダールの監督作品『軽蔑』に、自身の役で特別出演している。晩年はアメリカで過ごした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリッツ・ラング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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