翻訳と辞書
Words near each other
・ フリードリヒ・アウグスト2世
・ フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)
・ フリードリヒ・アウグスト3世
・ フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン王)
・ フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン選帝侯)
・ フリードリヒ・アウグスト・クヴェンシュテット
・ フリードリヒ・アウグスト・フォン・アンハルト=デッサウ
・ フリードリヒ・アウグスト・フォン・カウルバッハ
・ フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク
・ フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハラハ
フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ
・ フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ
・ フリードリヒ・アダム・ユリウス・フォン・ヴァンゲンハイム
・ フリードリヒ・アドラー
・ フリードリヒ・アルフレート・クルップ
・ フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク
・ フリードリヒ・アルベルト・ランゲ
・ フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク
・ フリードリヒ・イェッケルン
・ フリードリヒ・ウェーラー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ : ミニ英和和英辞書
フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ[ちょうおん]
フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ(、1777年5月29日ベルリン-1837年12月6日フリーダースドルフ、クライス・キュストリン)はプロイセン王国騎兵中将にして政治家である。
==出自と生涯==

マルヴィッツはノイマルクの古貴族(Uradel)、マルヴィッツ家の出身である。同家は1259年の文献に初出し、ランツベルク・アン・デア・ヴァルテ近郊、マルヴィッツ村(現在のポーランド領マルヴィツェ)に出自を持つ。数世紀にわたり、一門の男子の多くが職業軍人の道へ進んだ。
その中から数百名がプロイセン軍士官となり、うち十四名が将官に達した。フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒには、彼と並んで著名な叔父が二人いる。それはグスタフ・ルートヴィヒと、フリードリヒ大王から占拠したフベルトゥスブルク狩猟館で略奪を働くよう命じられ、拒んで不興を買ったヨハン・フリードリヒ・アドルフである。
またプロイセン第61歩兵連隊は、1918年までこの家門の名を冠していた。

フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒは、後にプロイセン国王の侍従長となる侍従(Kammerherr)、ベーレント・フリードリヒ・アウグスト・フォン・デア・マルヴィッツ1740年-1793年)とその妻、ズザンネ・ゾフィー・マリー・ルイーゼ(1756年-1808年)が儲けた五人の子の一人として生まれた。ベルリン市内、ヴィルヘルム通りにある一族の邸宅に生まれると、フリードリヒ・アウグストは1790年、即ち十三歳の時にプロイセンの、ジャンダルム胸甲騎兵連隊に入隊した。
早くも翌年には准尉に昇進し、1802年中尉として除隊している。しかし、続いて1805年1806年に彼はホーエンローエ侯フリードリヒ・ルートヴィヒ副官として同連隊に復帰した。この立場から、彼はナポレオン戦争で重要な役割を果たす。その一例は1806年イエナ・アウエルシュタットの戦いの時であった。プレンツラウ要塞が降伏した後、彼はホーエンローエ侯とともにフランス軍に拘束された。しかしフリードリヒ・アウグストはデンマークからスウェーデンを経由し、東プロイセンメーメルまで逃亡に成功する。
そこで彼は当初、同じくその地へ逃れた国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世から義勇部隊を編成する許可を得ようと、無駄に努力を重ねる。
1807年、マルヴィッツは念願の許可を賜ると、ナポレオンに対する戦いに参加する義勇部隊を創設した。それは歩兵三百名と騎兵五百名より構成されており、当時としては比較的に大規模であった。同部隊とともにリューゲン島へ渡ると、彼はフランス軍およびザクセン軍に対するプロイセン軍、イギリス軍そしてスウェーデン軍によるブランデンブルク辺境伯領への進攻に加わる計画を立てた。しかしティルズィットの和約が結ばれると、彼は義勇部隊を解散させなくてはならなかった。プロイセン王国は講和の条件によって、著しく領土を縮小したからである。
マルヴィッツは私人として荒廃したフリーダースドルフに戻ると、そこで暮らし始めた。
ナポレオンに対する敗北に直面し、プロイセン王国は続く数年間、広範な行政・教育および軍制改革を通じて国内の安定性を向上させ、変遷した近代的な戦争に対応しようと試みる。その主導者は、特に広い範囲で政治的に左右されない立場にあった帝国騎士爵、シュタインであり、それより一歩後退した形で後のハルデンベルク侯、カール・アウグストが継承した。彼らの政策、特に農民の世襲的臣従関係の解消は、辺境伯領の貴族の激しい抵抗に遭う。マルヴィッツはレーブスの領主層による州議会の議長として、反対勢力の指導者の一人であった。
1811年、ハルデンベルクは彼をフィンク・フォン・フィンケンシュタイン伯フリードリヒともども反逆者として逮捕し、シュパンダウ要塞に収監したが、その五週間後には当時、王太子であったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が介入し、彼を他の者とともに釈放した。
1813年、マルヴィッツは再びプロイセン軍に復帰するとラントヴェーアの養成に携わった。その旅団の一つを、彼は同年6月7日のヴィッテンベルクの戦いにおいて指揮し、成功を収める。そしてマクデブルクの戦いの後、第1級鉄十字章を授かった。1815年大佐に昇進し、騎兵旅団の指揮を託されるとナポレオンの百日天下の間その軍勢を相手に、第8ウーラン連隊を率いてリニーナミュールで戦い、柏葉付きプール・ル・メリット勲章を受章している。そしてナポレオン戦争が終わると、彼は第5騎兵旅団の司令官となった。
1817年には少将に昇進し、十年間在職する。1827年、彼は大いに敬意を払われつつ中将として退役した。
その後、1837年に没するまでマルヴィッツはフリーダースドルフの所領を経営する。同時にブランデンブルクの州議会議長として、政治活動に従事した。後にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世として即位した王太子は、高齢に達していた彼に気遣いを示し、表彰している。
マルヴィッツは、生きたまま埋葬されることを恐れていたので、自身の葬儀について非常に明確な指示を残した。遺骸は「風通しの良い部屋」に、「はっきりと腐敗の痕跡が現れるまで」横たえておき、それから埋葬するものとした。また全ての将官任命状および勲章とともに埋葬されることを望み、葬儀の間は自分のサーベルをクッションの上に置き、棺の横に据えるものとした。また埋葬の儀式や葬列についても綿密な決まりを設け、参加者もそれに従った。彼の先祖は、フリーダースドルフの教会にある一族のに埋葬されており、マルヴィッツ自身は二人の妻、兄弟や息子たちとともに、彼が墓地の壁際に造らせた家族の墓地に眠っている。最も古い墓石は最初の妻のもので、彼が墓碑銘を書いた。それは次の通りである。
「ここに我が幸せが眠る。ブリュール伯女カロリーネ・フランツィスカは1783年3月23日に生まれ、1803年5月12日にフリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツとフリーダースドルフで結ばれた。彼は健康なまま、1804年3月14日、妻に別れを告げた。幸せな出産から十四日後、夫は戻って妻の亡骸を見たのだ!彼女は自身を知る者すべてとって、喜びであった。」

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フリードリヒ・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・デア・マルヴィッツ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.