|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミヒャエル・カルクブレンナー(Friedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner、1785年11月2-8日 - 1849年6月10日〔(Walther Killy 1999), p. 413.〕)は、イングランドとフランスで人生の大半を過ごした、ドイツのピアニスト・作曲家であり、ピアノ教師、またピアノ製造者である。 ==概要== ショパンやタールベルク、リストが現れるまで、カルクブレンナーはイングランド、フランスまたはヨーロッパ全土において、最も知られたピアニストであるとみなされていた。〔1831年9月18日にショパンはこう書いている。''私はヨーロッパで一番のピアニストのカルクブレンナーと親しい間柄となりました。あなたも彼のことを気に入ることでしょう。''(Chopin 1931), p. 152. また1831年12月12日にはショパンはこうも書いている''ここの宮廷指揮者であるPearを通じて、私はロッシーニ、ケルビーニ、バイヨ等に出会いました。カルクブレンナーもその一人です。あなたは私がどれほど、エルツ、リスト、ヒラーらに関心を持っているか信じられないかもしれません。 - 「彼らはカルクブレンナーの隣に並べたらいないも同然です」'' (Chopin 1931), p. 154.〕。強力なライバルはフンメルただ一人だった。カルクブレンナーは多作家であり、膨大な数のピアノ曲(全部で200曲以上になる)、ピアノ協奏曲、さらにはオペラも作曲した。 父親はカッセル出身のユダヤ系の音楽家、クリスティアン・カルクブレンナー(1755年~1806年)。パリ音楽院で専門教育を受け、間もなく演奏活動に入る。1814年から1823年には、華麗な演奏家や名教師としてロンドンで名を揚げ、その後パリに戻る。1849年にフランスのアンギャン=レ=バンにて他界。 19世紀後半になるまで増刷を重ねた「ピアノ奏法の技法」(1831年)を記した彼は、''大志を抱くヴィルトゥオーゾの工場''〔(Starr 1995), p. 176.〕とまで呼ばれたパリに飛び込み、遠くは遥かキューバからやってきた数十の生徒たちを教えた。彼の最も優秀な生徒はMarie Pleyelとカミーユ=マリー・スタマティであった。スタマティを通じて、カルクブレンナーのピアノ技法はゴットシャルクやサン=サーンスへと受け継がれた。 イグナツ・プレイエルのピアノ製造会社に入社して、運良く事業と自分の芸術活動を両立させ、彼はこれにより非常に裕福となった。ショパンの《ピアノ協奏曲 第1番》はカルクブレンナーに献呈されている。カルクブレンナーはベートーヴェンの9つの交響曲をピアノ独奏用に編曲しているが、これはリストが同じ試みを行う何十年も前であった〔リストはカルクブレンナーの版を真面目に見て、彼の出版社であるブライトコプフ・ウント・ヘルテルにこう書き送った。''親切な手紙をお送りくださり、誠にありがとうございます。これまでのところ、私の最も心地よい仕事上の関係は、ドイツで親切にも私の作品の大半を出版してくださったホフマイスター氏以外との間にはありませんでした。ザクセン州における文学と音楽の個人事業に関する法律を知らないものですから、彼に私が編曲を企画したベートーヴェンの交響曲集、より正確に言えばピアノ譜なのですが、の話をしました。なのですが、実のところ、問題が生じています。私は自分の編曲がこれまで発表されている同種のものより、たとえ優れているとは言えないとしても、十分に趣向の異なるものであると考えているのですが、この考えが正しいかどうかという問題です。''最近カルクブレンナー氏編曲による同じ交響曲集が出版され、私は自分のものがカタログには残り得ないんではないかと懸念しております。''私は楽譜に楽器指定を書き込むのみならず、指番号を指定することにも注意を払い、自分の版をより完全なものとしようと考えています。''(Liszt 1894), p. 22. Italics added.〕。彼は両手での長く急速なオクターブのパッセージを用いたが、今日では19世紀のピアノ曲の中で当たり前に見られるこの奏法は、彼が最初に自らの作品に取り入れたものである。 今日においてカルクブレンナーの名から思い出されるのは、彼の音楽ではなく、彼の行き過ぎた自信過剰ぶりだろう〔これはおそらくゴットシャルクが最初に言い始めたことだろう。''完璧なまでの彼(カルクブレンナー)の作法の優美さ、上品さ、そして才能が彼に社会での成功をもたらした。しかし、彼はその折り紙つきのひどいうぬぼれによって、やがて支持を失ってしまったのだ。'' (Gottschalk 2006), p. 220. この意見はショーンバーグによって、100年以上経ってから再び取り上げられた。''しかしカルクブレンナーはより表面的な音楽家であり、加えて並外れた虚栄心に満ちたブルジョワ紳士であった。'' (Schonberg 1984), p. 118.〕。 彼はモーツァルト、ベートーヴェン、ハイドンの死後、自分こそがこの世に残った唯一の古典派作曲家だと信じて疑わず、またそれをはばかることなく世に知らしめようとした。つつましい出自にもかかわらず、彼は終生貴族となる野望を捨てず、ロンドンやパリで貴族階級の者たちと肩をすり合わせては悦に入っていた〔マルモンテルはこう記している。''カルクブレンナーには、これさえなければ礼儀正しい素晴らしい人物なのにという、もう一つ弱点がある。それは彼は自分を偉い貴族だと考えていることだ。彼の英仏の貴族と親しく付き合う習慣は、彼の第2の天性となっている。彼はそれをさも当然のことのように話すので、こちらは驚いてしまう。'' (Marmontel 1878), p. 105.〕。カルクブレンナーはもったいぶって、お堅く、大げさな礼儀作法を行う人物として記述されてしまうことには変わりないのであるが、その一方で知的で、商才のある極めて鋭い人物であったも評される。彼は生前より様々な逸話に事欠かぬ人物で、ドイツの詩人であるハインリヒ・ハイネによって痛烈に風刺されている。〔ハイネは彼のことを泥に落ちたボンボン菓子と呼んだ (Heine 1893), p. 277.〕 カルクブレンナーほどに逸話や話題の多い作曲家というのも、そうそういないことだろう。 彼の膨大な作品は事実上ほとんど演奏される機会を失ってしまっているが、最近になって彼の小品をレパートリーとして取り上げるピアニストも現れ始めた。彼のピアノ協奏曲(1番と4番)の新録音〔Hyperion recording of Kalkbrenner's 1st & 4th Piano Concerto 〕は2005年にリリースされており、短縮版による1番の旧録音も現在まで入手可能である。2012年には2番と3番のピアノ協奏曲のCDがリリースされた〔Hyperion recording of Kalkbrenner's 2nd & 3rd Piano Concerto 〕。ピアノ協奏曲の新録音は、いずれもハワード・シェリーの指揮とピアノ、タスマニア交響楽団の演奏によるものである。 ピアノ教師としてカルクブレンナーは、上腕の代わりに指や手の力を保つ奏法を開発し、その技法を門弟カミーユ・スタマティに伝えた。スタマティの弟子がカミーユ・サン=サーンスである。作曲家としては、夥しい数の作品を残したにもかかわらず、こんにちでは、ピアニストにとって必携の機械的練習曲のような指導書によって名を遺したにすぎない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリードリヒ・カルクブレンナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|