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フリードリヒ・ケクレ : ミニ英和和英辞書
フリードリヒ・ケクレ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フリードリヒ・ケクレ ( リダイレクト:アウグスト・ケクレ ) : ウィキペディア日本語版
アウグスト・ケクレ[ちょうおん]

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラドーニッツFriedrich August Kekulé von Stradonitz, 1829年9月7日 - 1896年7月13日)はドイツ有機化学者
ハイデルベルク大学、ベルギーのヘント大学を経て、1867年より終生ボン大学教授の職にあった。
メタン硫化水素などのを提唱し、メタンの型を拡張して、炭素原子の原子価が4であること、また炭素原子同士が結合して鎖状化合物を作ることを提唱した。
その後、芳香族化合物の研究へと移り、ベンゼンの構造式として二重結合単結合が交互に並んで六員環を構成するケクレ構造(亀の甲)を提唱した。
ケクレは原子同士が連なっていく夢を見て鎖状構造を思いつき、ヘビウロボロス)が自分の尻尾を噛んで輪状になっている夢を見てベンゼンの六員環構造を思いついたといわれている(後述)。その後、置換ベンゼンの異性体の数をケクレ構造で説明するためにベンゼン環は2つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を提唱した。
== 生涯 ==
1829年にヘッセン大公国の軍事参議官であったカール・ケクレを父としてダルムシュタットに生まれた。
1847年にダルムシュタットのルートヴィヒ・ゲオルクス・ギムナジウムを卒業し、ギーセン大学に入学する。入学当初は建築学を志望していたが、1848年ユストゥス・フォン・リービッヒの有機化学の講義を聴講して感銘を受け、一旦退学し有機化学へと転向した。1849年にギーセン大学に再び入り、リービッヒの門下生となった。
1851年に大学を卒業し、パリ大学ジャン・バティスト・アンドレ・デュマの元へと留学した。ここでシャルル・アドルフ・ヴュルツシャルル・フレデリック・ジェラールと知り合い、彼らの研究していた型の説を学んだ。翌年リービッヒの元へと戻り、アミルオキシ硫酸の研究で博士号を取得した。その後、スイス・クールで分析化学者アドルフ・フォン・プランタの下で助手を務めた。
1854年ロンドンに移り、聖バーソロミュー病院のジョン・ステンハウスの助手となった。ケクレはここで働く間にアレキサンダー・ウィリアムソンらと知り合った。ここでケクレは硫黄化合物に関する研究を行なった。そして、ウィリアムソンが提唱した水の型の概念が硫黄化合物にも適用できることを提唱した。
1856年ハイデルベルク大学ロベルト・ブンゼンの元に移り講師となった。ここでケクレは今度は炭素化合物についての研究を行ない、1857年メタンの型の概念を提唱した。さらに翌年、これを拡張して炭素原子の原子価が4価であり、互いに結合して鎖状化合物を形成できるという説を提唱した。この年、ヘント大学の教授に就任した。ケクレはここで不飽和脂肪酸幾何異性体について研究し、二重結合の概念を考察している。
1865年にはベンゼンのケクレ構造を提唱した。
1859年に有機化学の教科書『Lehrbuch der organischen Chemie』の第1巻を出版した。この教科書は1880年に第4巻第1部まで刊行されたところで中断してしまったが、これ以降に作られる有機化学の教科書の模範となった。また、世界初の化学者の国際会議である1860年カールスルーエ国際会議の開催に力を注いだ。
1867年にボン大学へと移り、さらに芳香族化合物に関する研究を続けた。
1872年に2置換ベンゼンの異性体の数を説明するため、ベンゼン環は2つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を提唱した。これによりベンゼン環の安定性の原因は不明なままであったが、異性体の数は矛盾無く説明できるようになり芳香族化合物の整理・体系化が可能となった。
1878年1886年1891年ドイツ化学会の会長を務めた。
1895年に皇帝ヴィルヘルム2世により貴族に列せられ、ケクレ・フォン・シュトラドーニッツ (Kekulé von Stradonitz) と称した。
1896年にボンで死去。
ケクレの門下からはアドルフ・フォン・バイヤーオットー・ヴァラッハライナー・ルートヴィッヒ・クライゼンといった著名な有機化学者が出ている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アウグスト・ケクレ」の詳細全文を読む




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