翻訳と辞書
Words near each other
・ フリードリヒ・ズール
・ フリードリヒ・ゼルチュルナー
・ フリードリヒ・ゼルテュルナー
・ フリードリヒ・チェルハ
・ フリードリヒ・ツェルハ
・ フリードリヒ・ツー・シャウムブルク=リッペ
・ フリードリヒ・ツー・ヴィート
・ フリードリヒ・ティーレガント
・ フリードリヒ・デア・グロッセ (戦艦)
・ フリードリヒ・デア・グローセ (戦艦)
フリードリヒ・ディッケル
・ フリードリヒ・デュレンマット
・ フリードリヒ・トゥタ
・ フリードリヒ・トラウン
・ フリードリヒ・ドミン
・ フリードリヒ・ドルマン
・ フリードリヒ・ナウマン
・ フリードリヒ・ニーチェ
・ フリードリヒ・ハイエク
・ フリードリヒ・ハインリヒ (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フリードリヒ・ディッケル : ミニ英和和英辞書
フリードリヒ・ディッケル[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フリードリヒ・ディッケル : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ・ディッケル[ちょうおん]

フリードリヒ・ディッケル(Friedrich Dickel、1913年12月9日1993年10月22日)は、ドイツ政治家軍人1963年から1989年まで、ドイツ民主共和国(東ドイツ)で内相を務めた。

== 来歴 ==
ヴッパータール近郊のフォーヴィンケルに生まれる。国民学校を卒業後、1928年から1931年まで鋳金工の職業訓練を受ける。1928年にドイツ共産主義青年同盟(KJVD)に加入し、1931年にドイツ共産党(KPD)に入党。1932年には赤色救護会および赤色戦線戦士同盟に参加。
ナチスにより1933年にドイツで共産党が非合法化されたのちも地下活動を行い、二度逮捕された。1935年からはフランス、1936年からはオランダで活動する。スペイン内戦に第XI国際旅団テールマン大隊の中隊長として従軍。1937年に特殊訓練を受けるためモスクワに赴き、ソビエト連邦参謀本部情報総局(GRU)のエージェントとしてフィンランド上海で活動した。1943年に日本軍に逮捕され、懲役刑を受けた。
第二次世界大戦後の1946年にドイツ(のちのドイツ民主共和国=東ドイツ)に戻り、ドイツ社会主義統一党(SED)に入党。ライプツィヒドイツ人民警察署長を務める。高等警察学校で学んだ後、1953年まで兵営人民警察教育総局政治・文化学校司令官を務める。1956年まで少将として兵営人民警察政治総局長。同年、東ドイツが再軍備したのち国家人民軍少将に転じる。
1956年から1958年まで、軍スポーツ協会「前進」の総裁、1957年にドイツ体操スポーツ連盟委員を務める。1957年から1959年までモスクワのソビエト連邦参謀アカデミーに留学し、軍事学士号を取得。1959年、ドイツ駐留ソ連軍参謀部でドイツ側常駐連絡官に就任。
1961年8月、国家防衛評議会参謀となり、ベルリンの壁建設に従事。1963年10月に中将に昇進し、カール・マロンの後任として内務大臣およびドイツ人民警察長官を務め(1989年まで)、1976年までは民間防衛長官を兼任した。1965年、大将に昇進。1967年から1989年までSED中央政治局委員および人民議会議員(1990年まで)を兼任した。1984年には東ドイツで5人しかいない上級大将に昇進した。
ベルリンの壁崩壊およびドイツ再統一後の1993年にベルリンで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フリードリヒ・ディッケル」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.