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フリーマントル刑務所(英語:)は、かつて、西オーストラリア州・フリーマントルにあった刑務所である。6万平方メートルの敷地の中には、刑務所、守衛詰所、脱走防止のための防御壁、コテージ、トンネル、そして、囚人たちが残した芸術作品がある。2010年、UNESCOの世界遺産に、他の10の史跡と共に、「オーストラリアの囚人遺跡群」の1つとして登録された。 == 歴史 == フリーマントル刑務所が建設されたのは1850年のことである。この地域の自由民による殖民の開始は1829年のスワン川植民地(後に、西オーストラリア植民地に改名)の建設に始まる。1849年には、植民地の農民たちは、植民地政府に対してイギリス本国から熟練した労働者だった囚人の植民地への移送を要求していた。しかしながら、彼らの要求が本国に届くよりも先に75人の囚人を乗せたScindian号(en)がスワン川植民地に到着してしまったため、植民地側は何一つ囚人を受け入れる準備をしていなかった。Scindian号に同乗し、1850年に西オーストラリア流刑植民地総督に就任することとなるエドムンド・ヘンダーソン(en)は、植民地の準備がまったくできていないことを認めると、すぐに、囚人たちのための仮の住居を建設した。今日では、その住居は、エスプランデ・ホテルとして使用されている。 ヘンダーソンの指示を受けたジェームズ・マニングとヘンリー・レイ(en)の監督のもとで、囚人たちの労働力を用いて、石灰岩を切り出し、刑務所の建設に取り掛かった。1851年に始まった工事が終了したのは1859年のことであった。最初にこの刑務所に囚人が収監されたのは1855年のことであった〔Fremantle Prison, James Semple Kerr, Published by Department of Contract And Management Services. Significance Statement, History and Policy Document. Revised 1998. ISBN 0-7244-9856-7〕。このときの刑務所のモデルはイングランドにあるペントンヴィル刑務所(en)であった〔Things to see in Fremantle Accessed 14 January 2006. 〕。 刑務所の建設が完了すると、しばしば囚人たちは、パース・タウン・ホール(en)やフリーマントル避難所(今日のフリーマントル芸術センター(en))の建設に参加した。囚人たちが建設した当時のフリーマントル刑務所は非公式には、ライムストーン・ロッジ(石灰岩でできたロッジ)と呼ばれていた。 1868年、西オーストラリアへの流刑処置が廃止された。そのため、西オーストラリアにおける流刑囚人の数が徐々に減ることとなった。1886年、刑務所はフリーマントル刑務所と名前を変え、西オーストラリア植民地政府の管轄となった。地元西オーストラリアでの囚人が西オーストラリア最大の刑務所となったフリーマントル刑務所へと移動することとなった。西オーストラリアへの流刑処置の廃止は他の州と比較しても遅く、他の州は、1853年に終了している〔Fremantle Prison National Heritage Values. Accessed 14 January 2006. 〕。ライムストーン・ロッジ当時のパン工場は、女性囚人の住居として生まれ変わることとなった。1970年にパース北東部にあるバンディアップ女性刑務所に移動するまで、女性囚人は随時60人程度が収監されていた。その後、フリーマントル刑務所内の女性囚人収監施設は刑務所の受付となった。 建物を建設している際に、6本のシャフトが石灰岩層から刑務所の東側にある帯水層に沈められた。この目的は、囚人に新鮮な水を供給するためのものである。刑務所内で利用されていた水の水質はパース市内よりも上質であったことから、囚人たちは、年間に5,500万リットルの水をくみ上げる作業を手作業で従事することとなり、くみ上げられた水はパース市内に運ばれた。1888年に、蒸気ポンプが備えられたことで、囚人たちはくみ上げ作業から解放された。 1896年、刑務所の地下20メートルの所に、トンネルを掘削することになった。その目的は、さらに多くの地下水をくみ上げることにあった。トンネルの建設には、厳しい環境の中で、囚人たちを酷使することによって実行された。トンネルの利用可能部分は1キロメートルを越えたが、1910年になると、刑務所地下のトンネル施設は放棄され、建設工事に使われた道具や設備もそのまま放置された。その後、このトンネルはこの地域の都市伝説を色々と生むようになった。 1907年、西オーストラリア州にもゴールドラッシュが到来するようになると、この地域の人口は急速に拡大することとなった。そのため、囚人たちの労働力でもって、ロットネスト島(en)から石灰岩を切り出し、住宅の建設が実行され、市街地が拡大された。この時期に、ジェレミー・ベンサムの影響を受けたパノプティコンも建設された〔。この当時の市街地の建設には、死刑囚も従事した。 第一次世界大戦から第二次世界大戦が終了するまでの間、オーストラリア陸軍がフリーマントル刑務所の一部を使用し、1939年9月から1946年6月までの間、陸軍は、軍事刑務所として使用した。陸軍は、近くのロットネスト島も軍事刑務所として使用された。 フリーマントル刑務所で最後の死刑が執行されたのは、1964年のことであった。最後の死刑執行者は連続殺人犯のエリック・エドガー・クック(en)であった。 1988年1月4日には、刑務所内の温度が52.2度にまで達したことから、囚人たちの暴動が発生した〔Commemoration, Voices & Museums Report Accessed 30 April 2006. 〕。70人の囚人たちは、刑務所の4区画を占拠し、15人の看守を人質に取った〔Fremantle Prison, a brief history Cyril Ayris ISBN 0-9581882-1-1〕。この暴動の結果、防火施設に深刻なダメージを与え、180万オーストラリア・ドルの金額に達した(フリーマントル刑務所暴動)。 この事件をきっかけに、フリーマントル刑務所は閉鎖へ動き出すこととなった。1991年11月、フリーマントル刑務所は閉鎖され〔Fremantle - Western Australia The Age. Retrieved 18 June 2011〕、当時収監されていた囚人たちは、パース南部のカジュアリナ刑務所(en)に移されることとなった。カジュアリナ刑務所は老朽化したフリーマントル刑務所に変わる最新鋭の刑務所として同年に建設が完成していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリーマントル刑務所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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