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「 フレグの西征」は、モンゴル帝国第四代皇帝(カアン)、モンケの時代にモンケの弟、フレグによって1253年から1260年に渡って行われた征服戦争。この遠征軍が中核となりイラン高原を中心にフレグ・ウルスが形成された。またこの後帝位継承戦争を経てモンゴル帝国は次第に分裂していくためモンゴル帝国全体で行われる最後の大規模な遠征となった。 == 背景 == チンギス・カンの西征において、イラン方面ではホラーサーン、マーザンダラーン両地方ではすでに一定の支配権を確立し、オゴデイの時代にはイラン鎮戍軍とイラン総督府が設置されていた。1241年12月に第二代皇帝オゴデイ死去以後、1246年に第三代皇帝グユクが即位したがバトゥと対立した結果、モンゴル帝国内で一時混乱が起こった。1247年8月にグユクはイルジギデイを指揮官としたペルシア遠征軍先発隊をイランに派遣した。 1248年4月にグユクが急死するとソルコクタニ・ベキはバトゥと協力して、1251年7月1日に第四代皇帝モンケを即位させ、粛清などによってオゴデイ政権を排除し、10年に及んだ混乱はようやく収束された。モンケの時代にはイラン鎮戍軍とイラン総督府によってその影響力はイラン全土にまで及びつつあったが、再びモンゴル帝国は「バトゥの西征」()以来となる東西への大遠征を企画し、モンケはクビライに東アジア経略を、フレグに西アジア経略(フレグの西征)をそれぞれ委ねることを発表した。 フレグの西征の最大の目的は、イラン方面で未だモンゴルに服属しない二大勢力、イスマーイール派とアッバース朝の打倒とされるが、目的がそれだけだとしたらその軍勢はあまりにも多すぎるため地中海への進出も計画していたのではないか、という説もあるが結局モンケの死で遠征は中止され真相は不明である。このため、『集史』にフレグがモンケから統治権を委ねられたとする領域として、「アム川の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」という一句が頻出するが、これは成立したばかりのマムルーク朝のあったエジプトの征服も盛り込まれていたのではないかとも推測されている。 またフレグ・ウルスにおいて編纂された『集史』はフレグ・ウルスの正当性を主張するためか、遠征の目的がイランの地での「フレグ・ウルス」という国家の建設はそのものにあり、フレグはモンケから内密にその要請を受けていたという話を載せている。 フレグはイラン入りする過程で、先行してイラン方面の支配を担当していたイラン鎮戍軍とイラン総督府に加え、ルーム・セルジューク朝、ファールスのアタベク政権サルグル朝、モースル、ロレスターンなどのアタベクたち、ケルマーン・カラヒタイ朝、キリキア・アルメニア王国、などのイラン高原一帯の諸王侯・スルタンたちの伺候を受け、それらを支配下に置いた。さらに北インドのカシミール方面の鎮戍軍(タマ軍)、いわゆるカラウナス軍団もモンケの勅命によってフレグの幕下に加わり、モンゴル帝国勢力下の南西部にあった戦力のほとんどが、フレグの指揮下となったことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレグの西征」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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