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フレッド・アトキンス(''Fred Atkins''、1910年 - 1988年5月14日)は、ニュージーランド・ウエストポート出身のプロレスラー。本名はフレッド・アトキンソン(''Fred Atkinson'')。 == 来歴 == 1940年代はオーストラリアで活躍し、オーストラリア・ヘビー級王座を通算3回獲得。1947年より北米地域に移動し、フランク・タニーが仕切っていたカナダ・トロント地区を主戦場に活動、ホイッパー・ビリー・ワトソンやジョニー・バレンタインとタイトルを争った〔。 1952年12月10日には、この年アメリカ初遠征の力道山とシングルで対戦し引き分ける。レオ・ノメリーニやタム・ライスと共に、同年に力道山が200戦以上行った試合の中で勝てなかった3人のうちの1人であった〔。 日本には1963年に初来日し、日本プロレスの第5回ワールドリーグ戦と世界選手権シリーズに参戦、キラー・コワルスキーと組んで力道山&豊登のアジア・タッグ王座に挑戦している。1968年には国際プロレスのオープニング・ワールド・シリーズにレフェリーとして来日した。 日本ではプロレスラーとしての経歴より、ジャイアント馬場のアメリカ修行時代のコーチとして知られており、馬場以外にもアート・トーマス、タイガー・ジェット・シン、アドリアン・アドニスなどのレスラーを育てている〔。1966年には、弟子のタイガー・ジェット・シンとのコンビでホイッパー・ビリー・ワトソン&ブルドッグ・ブラワーからトロント版のインターナショナル・タッグ王座を奪取した〔。 60歳を過ぎてもレスリングを続け、1971年夏に行った試合を最後に現役を退いた。引退後はレフェリーを務めていたほか、NHLのバッファロー・セイバーズやトロント・メープルリーフスのトレーナーとしても活動していた〔。晩年は、トロントで余生を過ごした〔。 1988年5月14日、心不全で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレッド・アトキンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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