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フレッド・ウェズリー(Fred Wesley、1943年7月4日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ファンク・トロンボーン奏者。1960年代から1970年代のジェームズ・ブラウン、1970年代のパーラメント、ファンカデリックとの仕事で知られる。 ==生涯== ジョージア州コロンバスで生まれ、アラバマ州モバイルで育った。高校教師・ビッグバンドのリーダーの息子。子供時代ピアノ、トランペットのレッスンを受け、12歳の時に父がトロンボーンを家に持ち帰ってきた。すぐにトロンボーンに夢中になった。〔Wcpn.org 〕 1960~1970年代にジェームズ・ブラウンのバンドの主要メンバーであり、多くのヒット曲で演奏。 中に『Say it Loud - I'm Black and I'm Proud』『Mother Popcorn』があり、『Hot Pants』などの曲では共作していた。 なめらかなリフ・刺激的で正確なソロ演奏はサックス奏者メイシオ・パーカーの演奏を補完し、ブラウンのファンク・ミュージックに器楽的な魅力を与えた。 1970年代にブラウンのバンドJ.B.'sのリーダー・音楽監督となり、多くの作曲・アレンジを担当。 フレッド・ウェズリー& the J.B.'sとして『Doing It to Death』を録音し、100万枚以上のヒットとなり、ゴールド・ディスクに認定された(1973年)。 1975年にブラウンのバンドを去り、数年間ジョージ・クリントンのさまざまなプロジェクトに参加した。またサイド・プロジェクトのThe Horny Hornsで二枚のアルバムを制作した。 1978年にはカウント・ベイシー楽団に参加してジャズに進出。1988年に初のジャズ・アルバム『To Someone』を発表。『New Friends』(1990)『Comme Ci Comme Ca』(1991)、ライブ・アルバム『Swing and Be Funky』(1994)『Amalgamation』(1994)などもある。 1990年代初頭にはブラウン・バンド時代の仲間とツアーし、ピー・ウィー・エリスやメイシオ・パーカーとJB Hornsを名乗った。エリスが去るとバンドはThe Maceo Parker Bandへ改名。ウェズリーはパーカーとともに花形プレーヤーであり、1996年には自身のバンドThe Fred Wesley Groupを結成した。現在のバンド名はFred Wesley and the New JBsである。 35年のキャリアにおいて彼はレイ・チャールズ、ライオネル・ハンプトン、Randy Crawford、Vanessa Williams、The SOS Band、Cameo、ヴァン・モリソン、Socalled、De La Soulなどのために編曲や演奏を務めた。演奏は多くのアーティストにサンプリングされた。 2002年に彼は自伝『Hit Me, Fred: Recollections of a Sideman』を書き、自分を「サイドマン」と定義した。同年、アルバム『Wuda Cuda Shuda』を発表。 2004年から2006年にはノースカロライナ大学のジャズ学部の准教授を務めた。現在は学生たちと訪問アーティストとしてバークレイ音楽学校やシカゴのコロンビア大学など無数の学校に訪れている。 自身のバンドでの演奏の他、Abraham Inc.というユニットでツアーしたり、David Krakauerとの共演、ヒップホップ・グループSocalledとの共演もある。 2007年にはファッツ・ドミノへのトリビュート・アルバム『Goin' Home: A Tribute to Fats Domino』に参加。 レニー・クラヴィッツ、Rebirth Brass Band、Troy "Trombone Shorty" Andrews、ピー・ウィー・エリス、メイシオ・パーカーとともにファッツ・ドミノの『Whole Lotta Lovin'』をカバーした。 2010年、イスラエルのファンク・グループThe Applesの4作目『Kings』に参加。〔Review of ''Kings'' ; www.parisdjs.com. Wesley contributes to the tracks "Howlin' With Fred", "In The Air", "All Right All Right" and "Kings".〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレッド・ウェズリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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