翻訳と辞書
Words near each other
・ フレデリック・デモンフォコン
・ フレデリック・デュリュー
・ フレデリック・デュリユー
・ フレデリック・デ・ハウトマン
・ フレデリック・トゥルビー・デイヴィソン
・ フレデリック・トゥーテル
・ フレデリック・トムリンズ
・ フレデリック・ニウ
・ フレデリック・ニウー
・ フレデリック・ネー
フレデリック・ノース
・ フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド
・ フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダファリン・アンド・アヴァ侯爵)
・ フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダファリン・アンド・アーヴァ侯爵)
・ フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダファリン侯爵)
・ フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダフリン・アンド・エヴァ侯爵)
・ フレデリック・ハミルトン=ブラックウッド
・ フレデリック・ハミルトン=ブラックウッド (初代ダファリン・アンド・エヴァ侯爵)
・ フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵)
・ フレデリック・ハンビ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フレデリック・ノース : ミニ英和和英辞書
フレデリック・ノース[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フレデリック・ノース : ウィキペディア日本語版
フレデリック・ノース[ちょうおん]

フレデリック・ノース(Frederick North、1732年4月13日 - 1792年8月5日)は、イギリスの政治家である。1770年から1782年まで首相を務めたが、在任期間の後半はアメリカ独立戦争への対応に追われた。財務大臣内務大臣など多くの閣僚も経験した。第2代ギルフォード伯爵(Earl of Guilford)、ガーター勲章受章者、枢密院顧問。1752年から1790年まで使った名目的称号でノース卿と呼ばれることが多い。
== 生涯 ==

=== 初期の経歴(1732年 - 1754年) ===
フレデリック・ノースは1732年4月13日に、ピカデリーから直ぐのアルベマール通りにあった家族の家で、6人兄弟の総領として生まれた〔Whitely p.1〕。ただし若い時はオックスフォードシャーにあるロクストン修道院で過ごすことが多かった。ノースが国王ジョージ3世に良く似ていたことから同時代の者達には、フレデリック王子がノースの本当の父である(つまり国王の兄である)と思わせた。王子の評判から有り得る話ではあったが、実際の証拠はほとんど無い〔Tuchman, Barbara (1984). ''The March of Folly: From Troy to Vietnam''. New York: Knopf, 185.〕。ノースの父、すなわち初代伯爵は当時フレデリック王子の侍従であり、王子はノースの名付け親になった。

ノースは初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューの子孫であり、サミュエル・ピープスやビュート伯ジョン・ステュアートとも繋がりがあった。ノースは当時父のギルフォード伯と幾分不穏な関係にあったが、大変密接な状態を維持した。ノースが若い時、家庭は裕福ではなかったが、父が従兄弟から資産を継承した1735年にその状態は改善された〔Whiteley p.2〕。母ルーシーは1734年に死去、父は再婚したが、継母のエリザベス・ノースもノースが13歳だった1745年に死んだ。異腹の弟の一人がウィリアム・ダートマス卿であり、生涯近しい友人となった〔Whiteley p.6-7〕。
ノースは1742年から1748年までイートン校で学び、1750年にはオックスフォード大学トリニティ・カレッジで文学修士の学位を得た。オックスフォードを出た後は、ダートマスと共にヨーロッパ大旅行し、ライプツィヒ大学で学び、ウィーンミラノパリを巡って1753年にイギリスに戻った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フレデリック・ノース」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.