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文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件〔ロシアに眠る幕府の大砲 江戸後期の紛争略奪品・東大調査 (朝日新聞、2010年9月6日)〕。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件とも呼ばれる。 == 概要 == 江戸時代後期の1804年、ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だってロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年、アダム・ラクスマンを根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。 文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り〔レザノフは同様の意見書をロシア皇帝にいったん上奏したが、のちに撤回した。〕、また、日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下は、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行〔幕府は享和2年(1802年)に箱館奉行を置いたが、文化4年(1807年)に西蝦夷地の松前藩領も召し上げて、松前に奉行所を移した。〕を司令官に、津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。こうした中、文化4年(1807年)には斜里に駐留していた津軽藩士70名が厳寒の越冬中に病死する事件が起こっている(津軽藩士殉難事件)。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われた幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている(後述)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文化露寇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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