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フーゴー・ヴォルフ : ミニ英和和英辞書
フーゴー・ヴォルフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フーゴー・ヴォルフ ( リダイレクト:フーゴ・ヴォルフ ) : ウィキペディア日本語版
フーゴ・ヴォルフ[ちょうおん]

フーゴ・ヴォルフHugo Wolf1860年3月13日 - 1903年2月22日)はオーストリアシュタイアーマルク州ヴィンディッシュグレーツ( Windischgrätz 現在のスロベニアスロヴェニ・グラデツ)〔ウィーンから約280Kmほど南南西に位置する。〕で生まれた作曲家音楽評論家である。
== 生涯 ==
両親ともスロヴェニア人で、家名はもともとヴォウク(Vouk)と綴った。父親は皮商人(皮細工職人)で、熱心な音楽愛好家であった。その父親からフーゴはピアノヴァイオリンを学んだ。学校時代は音楽以外の才能がありそうでもなく、楽しい学校生活ではなかった。結局1875年ウィーン音楽院に入学した。彼はここでごく僅かしか勉強せず、1877年、多分いたずらから校長宛に脅迫状を書き、退学処分となった。17歳のときから音楽を自習した。ピアノのレッスンと父親からの財政援助のおかげで、数年ウィーンで生活することが出来た。しかし生活は厳しくなり、極度の貧困から健康を害し、彼の誇る繊細さと神経質な性格がかなり衰えていた。
1884年、ヴォルフはウィーンの並木通りに(出没する)「サロンブラット(社交誌)」の音楽評論家になった。妥協のない辛らつな表現によって、すこしばかりの名声を得た。熱烈なワーグナーへの賛美は、厳しいブラームス拒否へと結びついていき、彼はブラームスを生涯見下していた。
ヴォルフがブラームスを見下すようになったのは1879年頃の両者の出会いのことだった。ヴォルフが自分の作品を携えてブラームスを訪ねた時に、もっと音楽の世界を広げた方がよいという助言をもらった。また、ベートーヴェンの作品を研究していたグスタフ・ノッテボームの下で、対位法に習熟するためのレッスンを受けるべきとも言われた。それがヴォルフには自分への批判のように聞こえたため、ワーグナー派とブラームス派との対立に便乗する形となった。
1887年、この年、ヴォルフは12の歌曲を発表、サロンブラットでの地位を断り、なお一層作曲に没頭した。その後の9年間作曲家として名声を得た。時の経過と共に、やがて集中的創造力の時期のあと、精神的及び肉体的な衰弱を感じ、時には音楽を聴くことすら我慢できない状況にあった。
1891年の終りには、すでにヴォルフは名声を博した最高傑作を生み出していた。これらはエドゥアルト・メーリケの詩集から43編、20のアイヒェンドルフ の詩から20編、ゲーテの51の詩集、エマヌエル・フォン・ガイベル(Emanuel von Geibel, 1815 - 1884)とパウル・フォン・ハイゼ(Paul Heyse, 1830 - 1914)のスペイン詩集から44編、ハイゼのイタリア詩集から22篇である。
1895年には24の別の歌曲を作曲した。更に他の著作者によるテキストから13篇、イプセンの3幕の劇『ソールハウグの宴』の舞台音楽、幾つかの合唱曲と器楽作品、1896年マンハイムで初演され成功を収めた5幕のオペラ『お代官さま』、最後に1897年3月、『ミケランジェロの3つの詩』を作曲した。
1897年の9月、梅毒の影響が現れた。それは18歳の時に招いたものであった。その結果、精神病院へ強制的に入れられ、4ヶ月後の1898年1月に退院した。その1ヵ月のちトラウン湖バート・イシュルの北東、ザルツブルクの東約50Km、ザルツカンマーグートに近い。ウィーンの西約235Kmに位置する風光明媚な所である。〕で自殺(未遂)を図り、連れ戻された。その後自分の意志で施設に戻り、狂気のまま5年を過ごし、1903年2月22日に悩み多きヴォルフは満43歳直前に逝去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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