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ハリー・フーディーニ(Harry Houdini、1874年3月24日 - 1926年10月31日)は、「脱出王」の異名を取った、ハンガリー・ブダペスト出身〔生前、本人はウィスコンシン州アップルトンの出身だと言っていたが、死後、ハンガリーの出生記録からブダペスト出身と判明。〕のユダヤ人で、アメリカ合衆国で名を馳せた奇術師。本名エリック・ヴァイス (Erik Weisz) 。「現在でもアメリカで最も有名な奇術師」と呼ばれるほど認知度は高く、奇術師の代名詞ともなっている。飛行機や陸上競技への造詣が深かった。超能力や心霊術のいかさまを暴露するサイキックハンターとしても知られる。 ハリー・フーディーニの芸名は、当時アメリカで活躍していた奇術師ハリー・ケラーの名前とフランスの奇術師ロベール・ウーダンの姓の綴り "HOUDIN" の最後に "I" を加えたもの。 == 略歴 == 1891年にアメリカで出版された『霊媒術の暴露』(著者匿名)という霊媒のトリックを詳細に解説した本に書かれていた「縄抜け」のテクニックに興味を持ったことでマジシャンへの道を志す。デビュー前後は、従兄弟とともにコンビで興行していた。 脱出術を得意とし、各国の警察の留置場や刑務所に収監されての手錠外しによる脱出や、また凍った運河やミルク缶からの脱出を行い、話題となった。「フーディーニに脱出できない所は無い」「不死身の男」「脱出王」と大規模に宣伝するなど、マスコミを利用した売り込み技術はずば抜けた才能があり、当時のアメリカのトップスターとなった。 また、それまであったトランクからの脱出を、助手と奇術師が一瞬で入れ替わるトリックへと進化させ、奇術にスピード性と鮮やかさをもたらした。妻のベアトリス(ベス) (Wilhelmina Beatrice (Bess) Rahner) と行ったこの入れ替わりマジックは「メタモルフォーゼ(完全変態)」と呼ばれる。 俳優としても数本の映画に出演し、そのいくつかは日本などの世界各地で上映されている。最初の出演作「マスター・ミステリー」(1919年)は、ロボットが映画史上初めて登場していることでも有名。 一方で、最愛の母の死去に伴い当時大流行していた心霊術(スピリチュアリズム、交霊術)信仰へ傾倒する。だが、奇術師としての知識と洞察力からじきにそれらがトリックだと気付き、これを暴くことに熱心に取り組んだ。心霊術の擁護を行なっていたコナン・ドイルと一時親交を結んでいたが、フーディーニは手紙の中でドイルを「(高い知性を持つにも関わらず)非常にだまされやすい人物」と評している。心霊術を調査する為にアメリカの科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』が学者らによる調査委員会を発足させたときにも委員として参加し、奇術師としての知識と才能を駆使して、超能力者や心霊能力者のいかさまを見破ることに貢献した。フーディーニは本物の霊能力者に会うことで死んだ母親と交信をしたかったものの、プロの奇術師であるフーディーニを欺けるような霊媒師など存在するはずがなく、その怒りからサイキックハンターの道を歩んだといわれている(インチキ霊媒師の手口を暴き、その技を改良して自分のパフォーマンスに応用できるという役得もあった)。 しかし1926年、楽屋に訪れた大学生のホワイトヘッドに「腹部を強く殴られても平気」という芸を見せる際、フーディーニが準備していない段階で殴られたことが原因の急性虫垂炎で10月31日に死亡してしまった。葬儀に参列したフローレンツ・ジーグフェルドは、棺の前で「賭けても良いが、彼はこの棺の中にもういない!」と言ったという。フーディーニは死の直前、妻ベスに対して「死後の世界があるのなら、必ず連絡をする」と伝えたが、その後何のコンタクトも無かったとベスは語っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハリー・フーディーニ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Harry Houdini 」があります。 スポンサード リンク
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