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フーベルマン : ミニ英和和英辞書
フーベルマン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

フーベルマン ( リダイレクト:ブロニスラフ・フーベルマン ) : ウィキペディア日本語版
ブロニスラフ・フーベルマン[ちょうおん]

ブロニスラフ・フーベルマンブロニスワフ・フーベルマン、ブロニスラフ・フーバーマン、Bronisław Huberman, 1882年12月19日 チェンストホヴァ - 1947年6月15日あるいは6月16日 ジュネーヴ近郊)はポーランド出身のヴァイオリニストで、パレスチナ管弦楽団(後のイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)の創設者の一人。
==年譜==
ポーランド南部のチェンストホヴァに生まれる。6歳でワルシャワ音楽院ミハロヴィッチロットローゼンらの教育を受け、1892年(9歳)からベルリンに行き、ヨアヒム(実質はヨアヒム門下のカール・マルケス)と、シャルル・グレゴロヴィッチの指導を短期間受けた。
1895年1月、ウィーンで行われた大歌手アデリーナ・パッティの決別演奏会で大成功を収める。翌年フランクフルトフーゴー・ヘールマンに師事し、パリで2~3度マルタン・ピエール・マルシックの指導を受けたという。
翌年1896年には齢13歳でウィーンのムジークフェラインザールにてブラームスの前で彼のヴァイオリン協奏曲を演奏、作曲者をいたく感動させた。演奏終了後、カデンツァの途中で湧き起こった聴衆の拍手に動揺してうまく弾けなかったと言って詫びるフーベルマンに対し、ブラームスは「そんなに美しく演奏するからさ」と慰め、「Br.フーベルマンへ 1896年2月1日のウィーンと、感謝に満ちた彼の聴き手であるJ.ブラームスを親しく思い出してくれることを願って」とサインした自らの肖像画を贈るとともに、ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲を作曲することを約束したという。この約束はブラームスの死により果たされなかったが、これにより、フーベルマンはヨーロッパ音楽界の寵児となる。同年にはアメリカを演奏旅行する。
1902年までと第一次世界大戦での演奏中断期をはさんで、ベルリンを本拠にヨーロッパにおいて活躍していたが、1933年ナチスの政権獲得とともに抗議キャンペーンを開始。1920年代はベルリンを本拠にして活動していたが、ナチスの台頭に伴いドイツを離れた。
その一方で1936年、若いユダヤ人亡命音楽家を集めてパレスチナ管弦楽団を結成(1948年にイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団と改称)。かねてから敬愛していたアルトゥーロ・トスカニーニを最初のコンサートの指揮者として迎えた(この初演奏会には、フーベルマン自身は、自分の売名行為であることを避けるため、出演を辞退している)。しかし、その翌年の1937年に、演奏旅行先のジャワ島の空港で飛行機事故に巻き込まれ両腕を負傷。一時は再起不能説も出たが、不屈の精神で復帰を果たし、戦時中はアメリカで演奏活動を行った。
第二次世界大戦中から1946年までアメリカで過ごし、その後ヨーロッパ楽壇にも復帰したが健康を害し、ジュネーヴ近郊に没した。臨終の地については、コルジェ=シュル=ヴヴェともナンともされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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