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ブクサールの戦い : ミニ英和和英辞書
ブクサールの戦い[ぶくさーるのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ブクサールの戦い : ウィキペディア日本語版
ブクサールの戦い[ぶくさーるのたたかい]

ブクサールの戦い(ブクサールのたたかい、ヒンディー語:बक्सर का युद्ध, 英語:Battle of Buxar)は、1764年10月23日インドブクサールにおいて、イギリス東インド会社ムガル帝国アワド太守、前ベンガル太守のインド側連合軍との間に行われた戦い。バクサールの戦いとも呼ばれる。
この戦いはプラッシーの戦いとは比べものにならない程の激戦であった。イギリスはこの戦いに圧勝し、その後の講和条約でベンガルビハールオリッサディーワーニー(収租権)を認められ、事実上支配することとなった。
==戦闘に至る経緯==
1757年プラッシーの戦いののち、イギリスはミール・ジャアファルを太守に任命したが、イギリスの要求にこたえることは無理であると判断して次第に対立するようになった。そのため、1760年3月にイギリスはミール・ジャアファルの娘婿ミール・カーシムを任命した〔Murshidabad 8 〕。
だが、ミール・カーシムもまたイギリスの横暴に耐えることが出来なくなり、太守の権威が軽んじられていると考え、次第に対立するようになった〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.93〕。その後、1763年2月にミール・カーシムがイギリスの自由通関権に干渉したため、同年7月にイギリスはミール・カーシムを廃位し、ミール・ジャアファルを復位させた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.272〕〔Murshidabad 8 〕。
ミール・カーシムはイギリスと戦端を開いたが、数々の裏切りに会って敗れ、打ちひしがれる結果となった。同年11月にイギリス軍がパトナに迫ったとき、ミール・カーシムは一戦も交えずにアワド領へと逃げた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.95〕。
ミール・カーシムはアワド太守シュジャー・ウッダウラの保護を受け、元に戻れるよう支援を約束された。同様に保護を受けていたムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世ともこのとき合流した。こうして、皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.96〕〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.67〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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