Dino Bu……"> ディーノ・ブッツァーティ について
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ブッツァーティ : ミニ英和和英辞書
ブッツァーティ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブッツァーティ ( リダイレクト:ディーノ・ブッツァーティ ) : ウィキペディア日本語版
ディーノ・ブッツァーティ[ちょうおん]

ディーノ・ブッツァーティ・トラヴェルソDino Buzzati-Traverso1906年10月16日 - 1972年1月28日)は、イタリア人の作家、短編小説家、画家、詩人。コリエーレ・デラ・セラの記者でもあった。ブッツァーティの世界的な名声は、主に彼の著作「タタール人の砂漠」に負うところが大きい。しかし同時に彼は、好評を博した短編集でも有名である。短編集 Sessanta racconti で1958年にストレーガ賞を受賞している。そのほか、舞台美術、評論、漫画も手がける。
彼は、イタロ・カルヴィーノと並んで20世紀イタリア文学を代表する作家である。幻想的、不条理な作風からイタリアのカフカと称されることがある。
== 生涯 ==
ブッツァーティは、彼の先祖が過ごしてきた町、北イタリアのベッルーノの近くの町サン・ペレグリッノに生まれた。ブッツァーティの母はヴェネチア生まれで獣医をしていた。また、父親は、古代から続くベッルーノ家の出身で国際法の教授だった。ブッツァーティは四人兄弟の二番目の子である。兄弟のうちの一人は有名なイタリア人遺伝学者のアドリアノ・ブッツァーティ・トラヴェルソである。1924年、ブッツァーティはミラノ大学法学部に入学、1928年に卒業。在学中、二年間の兵役に就く。この大学では、かつて彼の父親が教鞭を取ったことがあった(法学者である父ジュリオ・チェーザレは1920年に亡くなっている)。法学部の卒業も間近かとなった頃、22歳の時に、ブッツァーティはミラノの新聞「コリエーレ・デラ・セラ」に雇われ、働くことになった。(結局彼は死ぬまでこの新聞社に残ることになる。)最初は校正部で働いたのだが、後にはレポーターや特別特派員、エッセイスト、編集者、批評家として働くようになった。彼の記者としての背景があったからこそ彼の作風ができあがり、さらには、最も現実離れした作品にすら現実的な雰囲気が見い出されることになったのだと言われている。
ブッツァーティ本人は、その影響について下記のように述べている(ローレンス・ヴェヌーティの引用による)。
「私には、空想や夢想というものは、できる限り新聞や雑誌の記事と同じものになるべきだと思われる。実際のところは少しはそうした要素が含まれているとしても、適切なのは『陳腐なものにする』という言葉ではない。むしろ、夢想的な物語の『有効性』は、それが最も平易かつ実用的な言葉で語られることにあると言いたい」〔''Restless Nights - Selected Stories of Dino Buzzati'' (Introduction by L. Venuti) (North Point Press, 1983)〕
1933年に刊行された処女小説 Barnabo delle montagne はほとんど注目されなかった。第二次大戦中、ブッツァーティはレジャ・マリナ(=海軍)付きの記者としてアフリカにいた。1939年に特派員としてエチオピアに派遣され、1940年には従軍記者として巡洋艦に乗りマタパン岬沖海戦やシルテ湾海戦などを報道したのである。戦争終結後、「タタール人の砂漠」がイタリア全土で刊行され、ブッツァーティはあっという間に批評家に認められ、名声を得ることとなった。また、短編集『七人の使者』(1942年)も高い評価を受ける。1950年代は『七人の使者』に収められている短編「七階」の戯曲化、ストレーガ賞の受賞、と成功を手にした時期である。また、ミラノで個展も開催された。1964年、ブッツァーティはアルメラ・アントニアッツィと結婚する。この結婚によって、彼の最後の作品「ある愛」が生み出されることになった。ブッツァーティは長い病の後、1972年に癌で亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディーノ・ブッツァーティ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dino Buzzati 」があります。




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