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ブライアン・トロティエ(Bryan John "Trots" Trottier、1956年7月17日 - )は、カナダ、サスカチュワン州ヴァル・マリー(Val Marie)生まれのプロ・アイスホッケー選手である。NHLではニューヨーク・アイランダーズで15シーズン、ピッツバーグ・ペンギンズには3シーズン在籍し、攻守にバランスの取れたセンターであったと評価される。特に1980年代初頭にアイランダーズがスタンレー・カップで4連覇(1980年から1983年まで)を記録したいわゆる「アイランダー王朝時代」の中核メンバーとして名高い。1997年にホッケーの殿堂入りを果している。 == 来歴 == ブライアン・トロティエは、1974年のドラフトにおいてチーム第2巡目、全体では第22位でアイランダーズに指名された。当時の北米ホッケー界はNHLが1972年に発足したライバルリーグWHLに対し様々な対抗策を講じていた時期であるといわれ、NHLによる 17、18歳の有望若年選手の囲い込み、青田買いも行われていた。トロティエの獲得もその一例である。このため、トロティエはすぐに NHL でプレーすることなく、1974-1975シーズンはジュニアリーグ (WCIHL) で144ポイントを上げ、リーグ最優秀選手となった。 翌1975-1976シーズンからは、アイランダーズに昇格し、メジャー第2戦でハットトリックを演じた。そして、シーズンが終わってみると当時マーセル・ディオンが保持していたアシスト数、ポイント数の新人記録を破って、カルダー記念賞(新人王)を受賞した。 1977-1978シーズン頃からアイランダーズは、トロティエ、マイク・ボッシー、Clark Gillis の強力布陣を備えめきめきと力をつけていった。トロティエが最高成績を残したのは 1978-1979シーズンで、リーグ首位の134ポイントを上げた。また、同年のアシスト数87は、前年の77に続く2年連続のリーグ首位記録である。 1979-1980シーズンには、アイランダーズはスタンレー・カップに優勝し、トロティエもコーン・スマイス賞(プレイオフ最優秀選手賞)を獲得する。こうして、1970年代後半から1980年代前半にかけて、圧倒的な力量を見せたウェイン・グレツキーを除けば、トロティエは、その得点能力と固い守備力によって当時最も優れたオールラウンドプレーヤーの一人に数え上げられる選手となった。 しかし、一方で同世代のセンター達、例えばマーク・メシエやスティーブ・アイザーマンと比較すると、第一線で長く活躍できた期間はやや物足りないとする評価もある。特に現役生活14年目以降は、その力が急激に衰えたように見え、1988年に82ポイントを上げていたのが、翌年は45ポイント、翌々年は24ポイントと落ちていった。 1990年7月20日にはフリー・エージェントで15年在籍したアイランダーズを後にして、ペンギンズに移籍した。同僚にはマリオ・ルミュー、ヤロミール・ヤーガーらがおり、移籍後の3年間のうち、1991年、1992年とスタンレー・カップ連覇を経験し、1993年は一旦アイランダーズのフロント入りするが飽き足らず、1994年にペンギンズの選手兼アシスタントコーチとして37歳で復帰しその年限りで現役を引退した。引退時点でのポイント数は NHL 歴代6位であった。 なお1984年のカナダカップにおいては、トロティエはカナダ人同胞から多くの批判を浴びながら、米国チームの一員として参戦した。この決断を行ったのは、自らの居住国に報恩するためと、妻が米国人であったためとされている。そして、1984年7月には、父方の祖先にクリー(Cree)族系のメティがいたため、米国籍を取得している。 引退後は、AHLポートランド・パイレーツのコーチ、NHLではコロラド・アバランチのアシスタントコーチ、ニューヨーク・レンジャースのヘッドコーチを務めた。 なお弟ロッキー・トロティエ(Rocky Trottier、1964年4月11日 - )もNHLのニュージャージー・デビルスでプレーした(1983-1984、1984-1985の2シーズンの在籍記録が残されている。)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブライアン・トロティエ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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