|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ブライアン・ドーバック (、1972年2月11日 - ) は、アメリカ合衆国・イリノイ州出身の元プロ野球選手 (MLB) 、マイナーリーグの監督である。現役時代 (MLB) は、ボストン・レッドソックスやニューヨーク・メッツ等で8年間プレイした。愛称は「ベルビル・バッシャー (Belleville Basher) 〔Brian Daubach Statistics and History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕〔英単語の「bash (動詞) 」は「叩く・殴る・強打する」等を意味する語で、転じて「basher」は「叩く人・強打する人」となる。ドーバックはベルビル出身である事から、「ベルビルの (野球ボールを) 強く叩く人 (打者) 」を意味する「Belleville Basher」が愛称となった。〕」。メディアによっては、ドウバックと表記される事もある〔姓の「Daubach」は「DAW-back」と発音する。〕。 == 経歴 == === 選手としてのキャリア (1990年 - 2006年) === ; プロ入りまで - : ベルビル高校・ウェスト高校 (いずれもイリノイ州の高校) を経て〔〔West HS Baseball Players - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕〔ウェスト高校の出身者としては、初のメジャーリーガーとなった (マイナーリーグだけでプレイした選手はいる) 。〕、1990年6月4日にニューヨーク・メッツからドラフト17巡目で指名された。指名から11日後の6月15日に、メッツと契約を結んだ〔Brian Daubach Statistics and History - Transactions - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕。プロ入り後は、マイナーリーグのGCL・メッツ (ガルフ・コーストリーグのルーキー級のチーム) に配属され早速、試合に出場した〔Brian Daubach Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕。この年は45試合に出場し、打率.270・1本塁打・19打点・2盗塁という成績を残した。守備面では、31試合でファーストの守備に就き、7失策・守備率.976という成績だった。 ; 〔 : この年は、アパラチアンリーグ (アドバンスト・ルーキー級) のキングスポート・メッツでプレイした。最終的には65試合に出場して7本塁打・42打点を記録したが、打率は大きく低下 (.243) してしまった。三振も65試合で64三振を喫し、ミート力に課題を残した。走塁面では、前年に2盗塁を決めて盗塁死は1つだけだったが、この年は1盗塁・3盗塁死という成績であり、盗塁成功率は低下した。守備面では、65試合のファースト守備で9失策・守備率.986という成績を記録し、前年よりも向上した。 ; 〔 : リーグのランクを1つ上げ、ニューヨーク・ペンリーグ (ショートシーズンのA級) のピッツフィールド・メッツに所属した。72試合の出場で打率.242・2本塁打・40打点という打撃成績に終わり、2年連続で.250未満の打率に終わったばかりでなく、ホームランも大きく減少した。しかし、プロ入り後自己ベストとなる15二塁打を放ち、三塁打 (2本) も合わせて計19本の長打を放った為、長打数は前年よりも増えた。走塁面では、1つも失敗せずに4盗塁を決め、成長の跡を示した。守備では引き続き一塁を守り、67試合で12失策・守備率.982と、ほぼ横這いの成績だった。 ; 〔 : この年は、A級・サウス・アトランティックリーグのキャピタルシティ・ボンバーズでプレイし、プロ入り以来自己最多となる102試合に出場した。打率.280・7本塁打・72打点・6盗塁という成績を記録し、打率と打点で自己ベストの数字をマーク、また盗塁も自己最多だった。守備面では、ファーストで自己ベストの守備率.989 (46試合) を記録したほか、初めて外野守備にも就いた。 ; 〔 : MLBでストライキがあった1994年、ドーバックは更にランクを1つ上げ (A+級) 、メジャーへの道のりを順調に進んでいた。この年はフロリダ・ステートリーグのセントルーシー・メッツでプレイし、前年を上回る129試合に出場した。打率.273・6本塁打・74打点という打撃成績を記録、1993年とほぼ同等の成績だったが、自己ワーストの120三振を喫した。走塁面では、マイナーリーグで自己最多且つ自身初の2ケタ盗塁となる14盗塁を記録したが、一方で盗塁死も9つに及んだ (盗塁成功率60.9%) 。守備では128試合でファーストの守備に就いたが、失策を12個に留め、守備率.991をマークした。 ; 〔 : この年は、AA級・イースタンリーグのビンガムトン・メッツに所属した。135試合に出場し、初の2ケタ本塁打となる10本塁打を放ったが、打率は.250未満に逆戻りし、2年連続で100三振以上を喫するなど、やや不振だった。守備面では、前年比+3試合となる131試合で一塁を守り、前年以下の10失策にまとめた (守備率.992) 。また、1試合でサードの守備にも就いた。 : 同年はAAA級・インターナショナルリーグのノーフォーク・タイズへの昇格も経験し、2試合に出場した。 ; 〔 : 前年に引き続き、AA級・ビンガムトンとAAA級・ノーフォークでプレイした。まず、ビンガムトンでは122試合に出場し、打率.296・22本塁打 (チーム最多〔1996 Binghamton Mets Statistics -- Minor Leagues - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕) ・76打点・OPS0.910という好成績をマークし、打棒を爆発させた。守備では121試合のファースト守備で、11失策・守備率.991にまとめ上げ、まずまずの安定感だった。また、2年連続で三塁守備に就く機会があった。ノーフォークでは17試合に出場して6打点をあげたが、打率.204・14三振と結果を残せなかった。一塁の守備は、9試合で無失策だった。 : シーズンオフの10月15日、メッツからFAとなり、11月7日にフロリダ・マーリンズと契約を結んだ〔。結局、プロ入りからメッツでメジャーデビューする事は出来なかった。 ; 〔 : マーリンズ加入1年目となる1997年は、インターナショナルリーグ (AAA級) のシャーロット・ナイツに所属した。136試合に出場して打率.278・21本塁打・93打点・1盗塁という成績をマークし、2年連続で20本塁打・80打点のラインをクリア、前年の好成績がまぐれでない事を証明した。守備面では、101試合の一塁守備で失策を8つに留め、100試合以上ファーストを守ったシーズンとしては、自身初の失策1ケタ台だった。攻守両面で安定した成績を残したが、10月17日にマーリンズからFAとなり〔、所属先が決まらないまま越年する事になった。 ; : FA状態で新年を迎えたドーバックだったが、年明け早々の1月6日、マーリンズと再契約を結んだ〔。この年もシャーロットでプレイしたが、これまでとは打って変わって外野 (主にライト) のレギュラーで起用された。マイナーリーグ自己最多の140試合に出場し、打力が開花した過去2年と比べてもハイレベルな成績を記録した。打率.316・35本塁打 (マイナー通算100本塁打を達成) ・124打点・9盗塁・OPS1.055という内容であり、本塁打はマイナーリーグ全体で6位タイ、打点は同4位だった〔1998 Minor League Batting Leaders - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕。守備面では、前述したようにライトを守った試合数 (97試合) が最多で、次いでファースト25試合、レフト8試合だった。 : マイナーで好成績を残したドーバックは、9月10日の対コロラド・ロッキーズ戦で、実にプロ入り9年目で初めてメジャーの舞台に上がった。同試合では「5番・ファースト」でスタメン起用されたが、記念すべきプロ初安打を放つ事は出来なかった〔September 10, 1998 FLA VS COL - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕。この年は最終的に10試合に出場し、打率.200・3打点という打撃成績を残した。守備は、メジャー昇格後はファーストに戻った。 : メジャーデビューや、マイナーでの大活躍等があったドーバックだったが、同年オフの11月19日にマーリンズから解雇された。しかし、すぐさま移籍先を見つけ、約1ヵ月後の12月18日にボストン・レッドソックスと契約を結んだ〔。 ; : メジャー2年目となる1999年、ほぼ1年通じてメジャーに定着し、ファースト・DHを中心に110試合に出場した。8月15日にはプレイヤー・オブ・ザ・ウィーク (週間MVP) を受賞し、最終的には打率.294・21本塁打・73打点・OPS0.921という好成績をマーク。シーズン終了後のルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票で4位にランクインした (同年の受賞者はカルロス・ベルトラン) 〔1999 Awards Voting - AL Rookie of the Year Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕。この年、マイナーではポータケット・レッドソックス (AAA級) で9試合に出場しただけだった。 ; : レッドソックスに移ってきて2年目のシーズン、ファーストのレギュラーに完全に定着し、チーム内では最多の142試合に出場した〔2000 Boston Red Sox Batting, Pitching, & Fielding Statistics - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年10月13日閲覧。〕 (DHとしても41試合に出場) 。打撃面では、初めて規定打席に到達し、2年連続で21本塁打を放ったが、打率.248に終わり、ア・リーグワースト8位の130三振を喫するなど、マイナー時代からの課題であるミート力の低さが露呈してしまった。一方、守備面では83試合でファーストを守り、3失策・守備率.996と堅実だった。 ; : 引き続き、レッドソックスでファーストのレギュラーを務めた。122試合に出場して、打率.263・22本塁打 (自己ベスト) ・71打点・1盗塁という成績を残した。打率は前年から上昇し、三振も108個まで減らした。守備では、106試合でファーストを守った (11失策・守備率.988) ほか、外野守備 (ライト・レフト) に就く機会もあった。なお、DHとして試合に出場する機会はなかった。この年は2年ぶりにマイナーでプレイする機会もあり、ポータケットとローウェル・スピナーズ (A-級) で各1試合ずつ出場した。 ; : 2002年はポジションが固定されず、ユーティリティ・プレイヤーとして起用されたが、計137試合に出場して2年ぶりに規定打席に到達。打率.266・20本塁打・78打点・2盗塁という成績を残し、4年連続で20本塁打以上を放ったほか、打点で自己ベストの数字を叩き出した。マニー・ラミレス (33本) 、ノマー・ガルシアパーラ、トロット・ニクソン (以上24本) の3選手と共に20本塁打カルテットを構成した〔2002 Boston Red Sox Batting, Pitching, & Fielding Statistics - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年11月13日閲覧。〕。守備面では、ファーストで60試合 (守備率.990) 、レフトで35試合、ライトで13試合 (以上守備率1.000) の守りに就き、指名打者としても28試合で起用された。シーズンオフの12月21日にFAとなった〔。 ; : 1月27日にシカゴ・ホワイトソックスと契約を結んだ〔。ホワイトソックスでは定位置を掴む事が出来ず、ユーティリティとして95試合に出場したが、いずれもメジャーデビュー年 (1998年) 以来となる、自己ワースト2位の打率.230・6本塁打・21打点という成績に終わった。守備では前年と同様、ファースト・ライト・レフトとDHで起用された。12月10日、ホワイトソックスを解雇された。 ; : 年が明けて1月14日、レッドソックスと契約を結び、2年ぶりに古巣に復帰した〔。だが、以前のような打棒を発揮する事は出来ず、僅かに30試合の出場で打率.227・2本塁打・8打点という打撃成績に終わった。この年から、再びマイナーで過ごす期間が長くなり、ポータケットで93試合に出場した。マイナーでは格の違いを見せつけており、打率.271・21本塁打・81打点・OPS0.927という好成績をマークした。守備面では、78試合で一塁守備に就き、5失策・守備率.992という内容だった〔。シーズンオフの10月4日、FAとなる〔。 ; : 2005年はなかなか所属先が決まらず、3月8日になってようやくメッツと契約を結び〔、9年ぶりにプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせた古巣に復帰となった。メジャーでは15試合に出場したが、打率.120・1本塁打・3打点という内容に終わり、結果を残せなかった。一方マイナーでは、ノーフォークで99試合に出場し、打率.325・16本塁打・62打点・1盗塁・OPS0.979という好成績を残した。守備は、71試合でファーストの守備に就き、2失策・守備率.997と堅実な成績を記録。9試合でレフトの守りにも就いた〔。10月3日にメッツからFAとなるが、12月20日にセントルイス・カーディナルスと契約を結び〔、年内に所属先を見つけ出した。 ; : カーディナルスでは、パシフィック・コーストリーグ (AAA級) のメンフィス・レッドバーズで67試合に出場したが〔、8月8日に解雇されると〔以後、契約を結んでくれる球団は表れず、同年限りで引退した。メジャーで試合に出場したのは、2005年のメッツ所属時が最後となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブライアン・ドーバック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|