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ブラッド・レイガンズ(Brad Rheingans、1953年12月13日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州アップルトン出身。 == 来歴 == 1972年、レスリングのワールドカップにてフリースタイル92kg級で優勝〔『THE WRESTLER BEST 1000』P244(1996年、日本スポーツ出版社)〕。1975年にはNCAAのチャンピオンとなり、1976年のモントリオールオリンピックではグレコローマン100kg級で4位に入賞した〔。1979年の世界選手権では3位、パンナム大会では2連覇し、1980年のモスクワオリンピックでは金メダルも確実とされたが、アメリカをはじめとする当時の西側諸国の集団ボイコットで出場はならず、バーン・ガニアのスカウトでプロに転向〔。1981年12月、AWAでプロデビューを果たす〔。 デビュー後はアスリート系の技巧派ベビーフェイスとして活動し、リック・マーテル、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼル、カート・ヘニングらと共にAWAの次期王者候補と目され、1984年1月にはニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した。1985年4月21日にセントポールで開催された "Starcage '85" には、ノースダコタ大学の先輩にあたるボブ・バックランドとのコンビで出場し、ブッチ・リード&ラリー・ズビスコを破っている〔。翌1986年4月20日にミネアポリスのメトロドームで行われた "WrestleRock '86" では、過去のモスクワオリンピック・ボイコット問題を下敷きとしたアングルのもと、オープニング・マッチでソビエト人ギミックのボリス・ズーコフと対戦した。 1987年にWWFに移籍し、1月19日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦にてフレンチ・マーチンを相手にデビュー戦を飾る。以降、アイアン・シーク、ニコライ・ボルコフ、ディノ・ブラボー、マイク・シャープ、ロン・バス、タイガー・チャン・リー、シカ・アノアイなどのヒール勢と対戦するも前座試合のポジションから脱することはできず、短期間でAWAに復帰。同じくオリンピック選手だったケン・パテラをパートナーにオリンピアンズ(''The Olympians'')なるタッグチームを結成し、1989年3月25日にバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)からAWA世界タッグ王座を奪取した。 日本には1983年8月に全日本プロレスに初来日。1989年4月からは新日本プロレスの常連外国人選手となり、1990年にかけてはスティーブ・ウィリアムスの参謀格として、サルマン・ハシミコフ率いるレッドブル軍団と米ソのレスリング抗争を展開した〔。新日本では若手選手のコーチやアメリカ人レスラーのブッキング業務も兼任、スコット・ノートンをはじめ自身がトレーニングした選手を新日本マットに来日させた。 セミリタイア後はミネアポリスにて、日本では「レイガンズ道場」と呼ばれるレスリング・スクールを主宰、選手の育成に専念している。1990年代初頭には、アメリカの女子プロレス団体LPWAのトレーナーも務めていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブラッド・レイガンズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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