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ブランコ・ド・ヴーケリッチ : ミニ英和和英辞書
ブランコ・ド・ヴーケリッチ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブランコ・ド・ヴーケリッチ : ウィキペディア日本語版
ブランコ・ド・ヴーケリッチ[ちょうおん]

ブランコ・ド・ヴーケリッチ(、1904年8月15日 - 1945年1月13日)はクロアチア出身のユーゴスラビア人のスパイで、ゾルゲ諜報団のひとり。日本ではユーゴスラビア紙ポリティカやフランス・アヴァス通信社(現在のAFPの前身)のジャーナリストとして活動した。ゾルゲ事件で検挙された。ブランコ・ヴケリッチとも表記される〔家族である山崎淑子や山崎洋はいずれも「ブランコ・(ド・)ヴケリッチ」と表記している。本人が日本語で記した署名の中には「ヴーケリッチ」としたものもあり、これについて山崎淑子は「第一音節にあるアクセントの位置を示すために音ビキを用いることもあった」と記している(『ブランコ・ヴケリッチ獄中からの手紙』p.95)。また「ド(de)」という貴族称号については、祖先にオーストリア皇帝から「フォン(von)」の称号を与えられた人物がおり、自らのフランス滞在時にそれをフランス風に「ド」に変えて使ったと山崎淑子に話したという(『ブランコ・ヴケリッチ獄中からの手紙』p32(「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」))。〕。
逮捕後、無期懲役判決を受けて網走刑務所に服役したが、健康を悪化させて獄死した。
== 生涯 ==

=== 来日まで ===
1904年、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領内だったオシエクで生まれる。父はオーストリア・ハンガリー帝国軍の将校で、母はオシエクに住むハンガリー系ユダヤ人資産家の娘であった〔『ブランコ・ヴケリッチ獄中からの手紙』p26(「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」)〕。その後、父の異動に伴って帝国内を転々とした後、1918年にザグレブに落ち着く。父は新たに発足したユーゴスラビア王国の将校となった。父は軍人である一方、ある程度小説家としても名を知られており、同じく軍人ながら詩人としても名のあった祖父、さらにやはり小説を執筆したことのある母とともに文才に長けた家系であった〔『ブランコ・ヴケリッチ 日本からの手紙』p293 - 301(「ヴケリッチ家のこと」)。ヴーケリッチは祖父(ラヴォスラヴ・ヴーケリッチ)を尊敬しており、長男に対して通例なら自らの父の名をつけるところ、あえてこの祖父の名をつけている。〕。父方はクライナ人(クライシュニクとも。詳細はクライナ・セルビア人共和国#クライナの起源を参照)の系譜に属し、祖父はセルビア正教会教徒であったが、「常に熱狂的なクロアチア人と感じていた」という〔。ハプスブルク帝国では正教徒が差別の対象とされたこともあり、父はプロテスタントに改宗している〔。このように、地域性からくる複雑な民族と複数の言語が交錯する環境でヴーケリッチは育った。この故か、ヴーケリッチは語学に堪能で、母語のクロアチア語のほか7つの言語を使いこなし、スペイン語ロシア語も理解できたという〔『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』p13(「はじめに」)。ほかの言語はラテン語ドイツ語フランス語英語ハンガリー語イタリア語チェコ語。〕。
1923年にザグレブのギムナジウムを卒業。在学中から社会主義への関心を抱いた〔『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』p28 - 30(「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」)〕。同年、ザグレブの美術アカデミー(現・ザグレブ大学)に入学。ここでは共産主義学生部会のメンバーとして、主に出版・言論活動に携わった〔。翌年、チェコスロヴァキアブルノ工科大学(Brno University of Technology)建築科に留学。この留学には、ユーゴの共産主義者がプラハの拠点から党の資料や文書をユーゴに持ち込むルートを作るという目的があったという〔。1926年には中退してザグレブに戻った。しかし、当時ユーゴ国内では社会主義運動は弾圧されており、ヴーケリッチはフランスへの留学を家族に提案する。父の浮気に悩んでいた母がこれに同意し、母および3人の弟妹とフランスに移り住んだ〔。ヴーケリッチはパリ大学法学部(ソルボンヌ)に入学する。ここでもヴーケリッチはユーゴ出身の他の仲間と左翼運動にかかわった。
在学中、夏のヴァカンスに出かけた先で、デンマーク人女性のエディット・オルソンと交際を持った〔『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』p31 - 32(「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」)〕。エディットはヴーケリッチよりも年上で、結婚を前提とした交際ではなく、そのまま別れたが、数ヶ月後に妊娠したので法的に父親になってほしいと連絡を受ける〔。エディットは、もしも別に結婚したい女性が現れれば離婚に応じるという条件もつけ、結婚を届け出た。ポールと名付けられた男児とエディットはデンマークで暮らしていたが、後にパリで同居する〔。しかし、上記の経緯もありこの結婚は不幸なものであったという〔。
1929年にパリ大学を卒業、電機会社の社長秘書として働いた後、1931年に帰国して兵役に就くも、4ヶ月で除隊となった〔環境の悪い懲罰部隊に配属されたことを憂慮した父が軍内の知人を介して目が悪いという理由で退役させたという(「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」)〕。退役後再びパリに戻り、かつての社会主義運動の仲間と交友を持つ。元の職場には戻れず、失業状態だった。1932年、ヤン・ベルジンの部下だったユーゴスラビア人のイヴァン・クラーリらから、就職の世話をするという口実でコミンテルンとの接触を斡旋される〔『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』p34 - 36(「ブランコ・ド・ヴケリッチのこと」)。クラーリはヴーケリッチの警察の訊問調書では「クラーイ」とされており、正確な姓名は1989年にユーゴで出版された『共産主義の子供たち』という書籍で明らかになった。ディーキンとストーリィの『ゾルゲ追跡』では「クラーイ」をのちにザグレブの精神科医となったヒューゴー・クラインではないかとしている(上巻・p203)が、前記の書籍はこの本の原書の刊行(1966年)よりも後からの出版であるため、ここでは山崎淑子の記述を採用する。〕。
コミンテルンに提出したレポートが評価されて協力を求められた。ヴーケリッチは当時のソ連一国社会主義やコミンテルンの知的貧困に批判的で、これを断っていた。しかし、今ソ連に協力して平和を維持すればソ連が社会主義から共産主義に移る革命の機会を与えられる、知的貧困を克服するにはむしろヴーケリッチのような人材が必要だとクラーリから説得された〔。その後組織の上級者に引き合わされ、情報収集の任務としてルーマニアか日本への派遣を示された。クラーリの次に引き合わされたのはオルガという女性で、彼女の面会を何度か受けた後、さらに別の上級者と引き合わされたという〔F.W.ディーキン/G.R.ストーリィ『ゾルゲ追跡』(上)、岩波現代文庫、2003年、p207 - 211。本書ではオルガはコミンテルン国際情報部(OMS)に所属するポーランド出身者ではないかと記している。また、クラーリの後、一度だけ合わされた2人の上級者以外で日本に出発するまで接触したのは彼女だけとされている。〕。ヴーケリッチは日本を選び期間は2年とされた〔。単身の外国人では怪しまれるという理由でエディットを同行させることになる。当時日本ではデンマーク体操が流行していたため、エディットには体操教師の免状を取らせた〔。ポールはデンマークのエディットの母に預けた。
ジャーナリストとして渡日することになったため、ヴーケリッチはフランスの写真雑誌『ヴュ』(VU)に写真を送って採用されたのを機に、日本特集号を出すことを提案し、自ら特派員となった〔。また、ユーゴスラビアの日刊紙「ポリティカ」からも知人を介して特派員証を手に入れた。この経緯については詳細がはっきりしていない。山崎洋は、ユーゴで刊行された「ポリティカ」の歴史を記した書籍にある「(ユーゴ共産党のシンパであった)社主の独断と推測される」という記述が「おそらく一番真実に近いのではないか」と記している〔『ブランコ・ヴケリッチ 日本からの手紙』p3(「ブランコ・ヴケリッチとその時代」)〕。1932年の年末にマルセイユを出発し、1933年2月11日に横浜に到着した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブランコ・ド・ヴーケリッチ」の詳細全文を読む




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