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ブリガム・ヤング : ミニ英和和英辞書
ブリガム・ヤング
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ブリガム・ヤング : ウィキペディア日本語版
ブリガム・ヤング

ブリガム・ヤング(Brigham Young 1801年6月1日 - 1877年8月29日)は、アメリカ合衆国の宗教家、政治家。1847年から末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長をつとめ、ソルトレイクシティを設立し、1850年から1858年までユタ準州初代知事をつとめていた。また、末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒定員会の大管長を1838年から1847年までつとめた。ブリガム・ヤング大学はその栄誉を称えて名付けられた。
ヤングには様々な渾名があり、その中でも最も広く知られたのは「アメリカのモーゼ」〔Newsroom - The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints 〕(あるいは「現代のモーゼ」、「モルモンのモーゼ」〔Trails of Hope: Overland Diaries and Letters, 1846?1869 - Maps: Their Use by Overlanders 〕)である。これは聖書のモーゼに似て、ヤングはその追随者であるモルモン開拓者を率いて砂漠を越えて移動し、彼等が約束の地と見なす所まで導いたからだった。ヤングはまたその大胆な個性により「神のライオン」とも呼ばれており、教徒からは「ブラザー・ブリガム」と呼ばれるのが普通だった。しかし、おそらくモルモン教徒以外の者からは最も著名な多重婚推進者として知られているので、ヤングの遺したものについては議論が多い。また歴史家達からは、黒人教会員から聖職と叙任される権利を無効にしたことに大いに責任があったとされている。さらに連邦政府に対抗したユタ戦争とマウンテンメドウの虐殺において果たした役割に関して関心が続いている。
== 初期の経歴、ジョセフ・スミスの後継者となるまで ==
ヤングはバーモント州ホワイティンガムの農家で生まれ、幾つかの職業を経験したが、その中でも旅の大工と鍛冶屋を生業にしていた〔Sheret, John G.: Brigham Young: Carpenter and Cabinet Maker 〕。1824年にミリアム・アンジェリン・ワークスと結婚した。1823年メソジストに改宗していたが、「モルモンの書」が1830年に出版されてから直ぐにそれを読んで、モルモンの教えに惹かれるようになった。正式には1832年にこの新しい教会に加わり、モルモン宣教師としてアッパー・カナダに旅した。1832年に最初の妻が死んだ後、オハイオ州カートランドで多くのモルモン教徒と共にその地域社会設立に加わった。
1844年、教会の大管長、ジョセフ・スミスが反逆罪で告発され、裁判を刑務所で待っている間に武装した暴徒に殺された。それに続く継承の危機の間に、教会の大管長の役割を引き受けようという者が何人か現れた。イリノイ州ノーブーで後継者を決める大きな集会が開催される前に、教会草創期の生き残りメンバーでは年長であるシドニー・リグドンが、無くなった預言者(スミス)の後継者はあり得ないので、リグドンが教会の「保護者」になるべきだと主張した〔Roberts, B. H. (ed.) ''History of the Church'', vol. 7, ch. XVIII.〕。ヤングはリグドンの論法と動議に反対した。スミスはある啓示を記録しており、その中では十二使徒定員会が初代大管長と「等しい権限と権力」を持つと謳っていたので〔Doctrine and Covenants107:23-24 .〕、ヤングは教会の指導が十二使徒定員会に委ねられると主張した〔Roberts, B. H. (ed.) ''History of the Church'', vol. 7, ch. XIX.〕。ヤングの追随者の多くは、ヤングが聴衆に話し掛けるときに、ジョセフ・スミスに似て見えるか似たような声と聞き、それを神の力によるものとした〔 Lynne Watkins Jorgensen, "予言者ジョセフ・スミスの権威がブラザー・ブリガムに渡る: 集合的精神目撃者からの121の証言" ''in'' John W. Welch (ed.), 2005. ''天の開くとき: 神の顕現証言, 1820-1844'', Provo, Utah: BYU Press, pp. 374-480; Eugene English, "George Laub Nauvoo Diary," ''BYU Studies'', 18 1978 : 167 ("ヤング大管長が立ち上がって聴衆に話し掛けたとき、その声はブラザー・ジョセフのものであり、その顔はジョセフの顔のように見えた。私が彼の顔を見、彼の声を聴いたことが無ければ、それがジョセフだと宣言していたことだろう"); William Burton Diary, May 1845. LDS Church Archives ("しかし彼等(ジョセフ・スミスとハイラム・スミス)の地位は私がそうあるべきと想定したよりもさらに良い者で提起された。ジョセフの魂はブリガムの上に現れた。"); Benjamin F. Johnson, My Life's Review 1928 , p. 103-104 ("しかし彼が話し始めるや否や私は飛び上がった。何から何までジョセフの声であり、その人間性、容貌、態度、衣服と外観、それはジョセフそのものだった。ジョセフの魂と権威が彼の上に具現化されたことが分かった。"); Life Story of Mosiah Hancock, p. 23, BYU Library ("ヤングは若者に過ぎないが、予言者ジョセフの権威がブリガム・ヤングの上に宿ったのが分かった。彼はその場にライオンのように立ち上がり、大衆を導いた"); Wilford Woodruff, Deseret News, March 15, 1892 ("私が自分の目で彼を見たことが無ければ、それがジョセフ・スミスではないと説得できた者は居なかっただろう。"); George Q. Cannon, ''Juvenile Instructor'', 22 October 1870 : 174-175 ("ブリガム・ヤングはジョセフ自身の声でそれを話したとき、聞こえたのはジョセフの声だけでなく、人々の目には目の前に立っているジョセフそのものであるかのように見えた。").〕。この集会に参加した多くの者にとって、この出来事はヤングが十二使徒定員会の大管長として教会を導く兆しのように受け入れられた。ヤングは、スミスの死から3年半経った1847年12月に教会の大管長に聖任された。リグドンはピッツバーグに本拠を置く別の教会組織の大管長になり、他にも後継者となる可能性があった者達がこの運動の他の会派となるものを導くようになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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