|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ブル : [ぶる] 【名詞】 1. bull 2. (n) bull ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) ・ 王朝 : [おうちょう] 【名詞】 1. dynasty ・ 朝 : [あさ, ちょう] (n-adv,n-t) morning
ブルゴーニュ王朝は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがブルゴーニュ出身であることに由来する〔金七『図説 ポルトガルの歴史』、21頁〕。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なる。 == 歴史 == === 王国の成立 === ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる〔合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、360頁〕。 フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャ=レオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した。 アンリの死後、ポルトガルではガリシアの大貴族トラヴァス家が勢力を広げ、在地の貴族たちはガリシアの拡大に抵抗を示した〔金七『ポルトガル史』増補新版、45頁〕。ポルトガルの貴族、サンティアゴ大司教の干渉に不満を抱くポルトガルの司教たちは協力して外部の勢力に抵抗し、彼らはアンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)を指導者に選出した〔金七『ポルトガル史』増補新版、46〕。アフォンソ1世は従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した〔。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた〔合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361頁〕。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年にローマ教皇庁から正式に国王として認められた〔〔〔ブールドン『ポルトガル史』、23頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブルゴーニュ王朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|