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ブルネイの歴史(ブルネイのれきし)では東南アジア島嶼部北部に位置する都市国家、ブルネイの歴史を扱う。 == 序論 == まず、ブルネイの歴史を形成した要因について触れる。ブルネイの歴史は、東南アジア島嶼部という地理的な条件に強く依存している。その条件とは (1) 熱帯雨林、(2) 世界最大の多島海、(3) 大文明の交通路(隘路)、というものである。 (1) の条件は絶対的である。近代に到るまでブルネイを含む東南アジアでは、農業における土地生産性は温帯諸地域に比べ極端に低かった。というのも、熱帯雨林の土壌は栄養塩類の溶脱が激しいため農業には不向きであり、それよりも生産性の低い小規模農耕、たとえば山岳部の照葉樹林地帯における陸稲や小規模な棚田におけるジャポニカ種の水稲栽培、熱帯雨林ではあっても溶脱した栄養塩類が集積する低湿地におけるサゴヤシ栽培、生産性が低く何年も継続耕作すると地力消耗が起きてしまうが、短期的には森林土壌に森林バイオマスにトラップされた栄養塩類を注ぎ込むことができる焼き畑におけるイモ類栽培といったものが、農業の基盤となってきたからである。現代においては人口過剰な東南アジアという像が確立しているが、これは比較的最近になってから大河の河口デルタ地帯でインディカ種の水稲栽培を行う大規模な稲作地帯が開墾されてからの現象である。そのため食糧生産基盤が脆弱だった19世紀に至るまでは大陸部のデルタを含む東南アジアは、他地域と比べ人口過疎地域だったのである。一方、熱帯雨林は野生生物の多様性が極めて高く、熱帯特有の動植物、特に他の地域に例を見ない香辛料や薬用植物、高価な工芸用木材などといった付加価値が高い天然生物資源を産するため、より生物多様性の低い近接したふたつの高度文明地帯、すなわちインドと中国を交易対象とした天然資源の採取という形での資源開発は進み、交易を基盤とした王朝や文化が花開いた。 (2) は熱帯雨林という特性と相まって、面的に広がる一円的な領土を持たない国家群、人を寄せ付けない内陸部と切り離された沿岸同士で相互交流を欠いたまま、別個に文化、物質を交換するという地域社会のあり方を促進した。たとえば、ボルネオ島山岳部にはダヤク人と呼ばれる山岳少数民族が暮らしていたが、ブルネイの記録には18世紀に至るまでダヤク人が登場しない。沿岸部と山岳部が全く異なる文化圏に属しており、相互の交流に乏しいことが分かる。 (3) の条件が要因となって、他地域との交流が他のどの世界と比べても進んだ。古代から近現代に到るどの時代においても軽工業製品を自国で生産するよりも輸入した方が安かったほどである。いずれの特性もブルネイの歴史に対し、強い影響を与えた。 ブルネイと他の東南アジア島嶼部諸国との違いも3点にまとめられるだろう。(1) 貿易の結節点に位置していない、(2) 周囲に他の都市国家(港市国家)がなく、港市国家間の抗争の影響を受けていない、(3) 19世紀に至るまでヨーロッパ人の搾取の対象となる資源を生み出しえなかった、という特徴である。 沿岸貿易の結節点は島嶼部東南アジアに分類されるマレー半島とスマトラ島、さらに焦点を絞ればマラッカ海峡周辺となる。ブルネイはマラッカ海峡と中国との間に位置し、中継点とはなっていたが、産物の性質、規模から、結節点とはならなかった。特有の香辛料を大量に産するモルッカ諸島(マルク諸島)はボルネオ島自体をはさんで、ちょうど裏側の位置となるため、モルッカ諸島獲得の争いともほぼ無関係でありえた。 東南アジア島嶼部、特にマレー半島、スマトラでは、川が都市の基盤となった。ジャワにおいても古代における内陸部の国家をのぞけばやはり河川が都市国家の基盤である。これは、熱帯雨林においては河川だけが大人口を支える基盤となり得たからである。川のない沿岸部はマングローブ林が繁茂し、陸と海の境界さえはっきりしない不毛の地であった。内陸部に侵入しようとしても、河川交通以外の手段はなく、ヨーロッパ人による植民地化も沿岸を飛び石伝いに進み、全域が植民地化されるまで300年、実に第一次世界大戦直前にいたるまでの期間を必要とした。 ブルネイはブルネイ湾に注ぎ込むブルネイ川の河口に成立した国家だが、都市国家を生む条件が周囲に整っておらず、いわば孤立していた。 3番目の特徴は、どのような農法を採ったとしてもブルネイ周辺ではヨーロッパ人の興味の対象となる商品作物を産しえなかったこと、特異な香料、鉱物資源が見つからなかったことを意味している。鉱業やプランテーション農園のために大量の外国人が導入された他の東南アジア島嶼部諸国では、マレーシアにおけるマレー人、インド人、中国人のように、宗主国の人種分断政策によって独立後も民族融和が進まず、深刻な国内対立が生まれている。このような問題もブルネイとは無関係であった。 以上から、島嶼部を含む東南アジア諸国のなかでも、ブルネイはもっとも安定し、平穏な時が流れた国であると要約できるだろう。ブルネイ王朝自らも、東南アジア、さらに世界において最も長く続いた王朝であると自国の歴史を規定している。少なくとも先住民族の文化・王国がいずれも滅んだ東南アジア大陸部はもちろん、戦争と侵略に応じて国の位置を変えていった他の東南アジア島嶼部諸国と比べ特徴のある歴史を持つとは言えるだろう。 ブルネイ史の結節点となったのは、16世紀におけるポルトガル・スペインとの関係、19世紀もおけるイギリス人のジェームス・ブルックとの交渉と戦闘、第二次世界大戦後のマレーシアとの関係である。いずれも、ブルネイの勢力圏・版図を絞り込む方向に働いたが、国自体の消滅は免れた。 以下では、ボルネオ島を中心とする東南アジア島嶼部の自然条件に触れたのち、紀元前2万年の過去から、現代に及ぶ、ブルネイと周辺地域の歴史を時代を追って紹介する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブルネイの歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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