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ブルボン=パルマ家(Bourbon-Parma)は、ブルボン家の現在まで続く分枝の一つで、パルマ公国を統治した家系。イタリア語名に基づいてボルボーネ=パルマ家(Borbone-Parma)とも呼ぶ。 この一門は本家であるフランス・ブルボン家を始め、スペイン・両シチリア王国の各ブルボン家、ハプスブルク=ロートリンゲン家と複雑な婚姻関係を結んでいる。現在のルクセンブルク大公家は男系ではブルボン=パルマ家の分家の一つに当たる。また、ブルボン=パルマ家の現当主はカルリスタの主流派が推すスペイン王位継承者でもあり、さらにオランダ王室の一員でもある。 == 歴史 == スペイン・ブルボン(ボルボン)朝の始祖フェリペ5世の後妻エリザベッタ・ファルネーゼは、パルマ公国を統治したファルネーゼ家出身であった。1731年にファルネーゼ家が断絶すると、エリザベッタはフェリペ5世との間にもうけた王子ドン・カルロスにパルマ公位を継がせた。ドン・カルロスはポーランド継承戦争でナポリ・シチリアの王位を得たが、引き換えにパルマをオーストリア・ハプスブルク家に譲渡した。しかしオーストリア継承戦争の結果パルマを取り戻し、1748年にカルロスの同母弟フェリペ(フィリッポ)が公位に就いた(カルロスは1759年に異母兄フェルナンド6世からスペイン王位を継いでいる)。これがブルボン=パルマ家の始まりである。フィリッポはフランス王ルイ15世の娘ルイーズ・エリザベート(ルイーザ・エリザベッタ)と結婚したが、これによりパルマは政治的にも文化的にもフランスの影響が強くなった。 パルマ公国は1796年にナポレオン・ボナパルトによって征服されるが、ナポレオンはハプスブルク家の分家が治めていたトスカーナ大公国を取り潰して1801年にエトルリア王国を建て、ブルボン=パルマ家の当主ルドヴィーコに代償として与えた。エトルリア王国は1807年、ルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコの代で廃され、フランス帝国の直轄領となった。 ナポレオン失脚後もパルマ公国はカルロ・ルドヴィーコには戻らず、ウィーン会議によりパルマはナポレオンの皇后であったオーストリア皇女マリーア・ルイーザのものとなり、カルロ・ルドヴィーコには代償としてルッカ公国が与えられた。1847年にマリーア・ルイーザが死去すると、カルロ・ルドヴィーコは翌1848年の死までパルマ公位に復した(ルッカ公国はハプスブルク家のトスカーナ大公国に併合された)。 カルロ・ルドヴィーコの息子カルロ3世は徹底的に反動政治を行うが、それが原因で1854年に暗殺される。長男ロベルト1世が6歳で公位を継いだが、サヴォイア家を中心とするイタリア統一運動(リソルジメント)が盛り上がる中、1860年の住民投票によってパルマのサルデーニャ王国への併合が決定し、ロベルトは12歳で君主の座を追われた。 パルマを追われたロベルト1世であったが、母ルイーズ・ダルトワはフランス・ブルボン朝最後の国王となったシャルル10世の孫娘であり、叔父シャンボール伯の死によりフランスのブルボン家が断絶すると、シャンボール城など宗家の遺産の一部を受け継いだ。また、娘の一人ツィタは最後のオーストリア皇帝カール1世の皇后になっている。ツィタの弟フェリーチェ(フェリックス)が第一次世界大戦後にルクセンブルク大公シャルロットと結婚し、その子孫が大公位を継いで現在に至っている。 1936年にスペインのカルリスタ系ボルボン家最後の男系当主サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスが嗣子を残さず没すると、カルリスタの一派はツィタやフェリーチェの兄であるサヴェリオを「ハビエル1世」としてスペイン王に推した。以後、現在に至るまでブルボン=パルマ家はカルリスタの主流派が推すスペイン王位継承者となっている。サヴェリオはまた、兄シスト(シクストゥス)とともに第一次世界大戦中にオーストリアの連合国との単独講和交渉に当たったことでも知られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブルボン=パルマ家」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 House of Bourbon-Parma 」があります。 スポンサード リンク
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