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ブル・カーリー : ミニ英和和英辞書
ブル・カーリー[ぶる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブル・カーリー ( リダイレクト:ブル・カリー ) : ウィキペディア日本語版
ブル・カリー[ちょうおん]

"ワイルド" ブル・カリー"Wild" Bull Curry、本名:Fred Thomas Koury, Sr.1913年5月2日 - 1985年3月8日)は、アメリカ合衆国プロレスラーコネチカット州ハートフォード出身のレバノン系アメリカ人。
左右のつながった極太の眉毛を持つ全身剛毛の悪相ヒールとして活躍し、日本では「猿人」「猿男」「類人猿」などの異名で呼ばれた〔〔『プロレスアルバム51 これぞプロレス ワンダーランド!!』P29(1984年、恒文社)〕。風貌同様に試合内容も荒っぽく、ドラム缶からビールの売り子まで、周辺にあるすべてのものを凶器に使用するなど、その狂乱ファイトはハードコア・レスリングの祖父ともされている〔。
息子の"フライング" フレッド・カリーもプロレスラーだったが、風貌もファイトスタイルも父親とは正反対のハンサムなベビーフェイスであり、「トンビが鷹を生んだ」などと評された〔。なお、フレッド・カリーの息子である孫のフレッド・カリー・ジュニア("ザ・ロケット" フレッド・カリー)もプロレスラーとしてデビューしている。
== 来歴 ==
レバノンからの移民の家族のもと、5人の子供の長男として育つ〔。10代でサーカスの一座に加わり、腕自慢の挑戦を受ける "Tough Man" として働いた後、コネチカット州の警察官に就任〔。その当時、路上に飛び出してきた牡牛を捕えてねじふせたことから、ブル・カリーBull Curry)と呼ばれるようになったという〔。
デトロイト地区のプロモーターだったアダム・ワイズミュラーにスカウトされ、1930年代にプロレス入り〔。以後、ミシガンをはじめマサチューセッツオハイオなどアメリカ北東部を拠点に活動。1940年にはデトロイトのフェアグラウンド・コロシアムにて、プロボクサージャック・デンプシーエキシビション・マッチで対戦した〔。
以降も各地を転戦し、ゴージャス・ジョージスカイ・ハイ・リードリー・ファンク・シニアドン・レオ・ジョナサンらと対戦〔。1950年代に入り、長年の主戦場となるテキサスに参戦〔。1953年3月にダニー・マクシェインを破ってブラスナックル王者となり、以降も同王座を再三獲得、1958年にはフリッツ・フォン・エリックとタイトルを争った。1950年代末からはニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーション(後のWWWF)にも進出してザ・シークとタッグを組み、アントニオ・ロッカ&ミゲル・ペレス、マーク・ルーイン&ドン・カーティス、ジェリー・グラハム&エディ・グラハムなどのチームと対戦した〔〔。
1964年3月、力道山没後の日本プロレスに来日し、ジン・キニスキーカリプス・ハリケーンザ・マミーらとともに第6回ワールドリーグ戦に出場。すでに50歳の年齢だったため、豊登吉村道明ジャイアント馬場ら日本人陣営に連敗して戦績は芳しくなかったものの、その怪異な風貌と破天荒なラフファイトで強いインパクトを残す〔。また、場外に敷かれたマットで相手を簀巻きにしたり、同時来日していたインディアンギミックチーフ・ホワイト・ウルフのダンスをバケツを叩いて鼓舞したりなど、コミカルな面も見せた。
同時期、アメリカでもコミカルさが支持されてベビーフェイスに転向しており、日本遠征後は主戦場のテキサスにてフレッド・カリーとの親子タッグで活動する一方、キラー・カール・コックスブルート・バーナードを相手に虎の子のブラスナックル王座を巡る抗争を展開〔。同王座は1969年9月にバロン・フォン・ラシクを破って戴冠したのを最後に、通算23回にわたって獲得した〔
キャリア末期の1970年代初頭は、古巣のデトロイトやオハイオ、カナダトロント地区などに再びヒールのポジションで登場し、エドワード・カーペンティアヘイスタック・カルホーンボボ・ブラジルなどと対戦した〔。トロントでは1968年5月26日、タイガー・ジェット・シンと組んでホイッパー・ビリー・ワトソン&ブルドッグ・ブラワーからNWAインターナショナル・タッグ王座を奪取している。旧友ザ・シーク主宰のデトロイトでは1972年2月19日、ブルーノ・サンマルチノやジャイアント馬場も出場したコボ・アリーナでのビッグイベントにて、ジョニー・バレンタインと対戦して引き分けている。
引退後は、1970年代末から1980年代初頭にかけて、ミシガンやオハイオで単発的にプロレス興行を手掛けていた〔。1985年3月8日死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブル・カリー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bull Curry 」があります。




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