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"アパッチ" ブル・ラモス("Apache" Bull Ramos、本名:Manuel Ramos、1937年8月3日 - 2006年5月27日)は、インディアンの血を引くメキシコ系アメリカ人のプロレスラー。テキサス州ヒューストン出身。生年は1935年ともされる〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P40(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 インディアン・ギミックのレスラーでは珍しくヒールのポジションで活動し、ミル・マスカラスやブルーノ・サンマルチノなどの大人気スターを相手に狂乱ファイトを繰り広げた。日本での異名は「殺人アパッチ」。 == 来歴 == 学生時代からボクシングで鳴らし、テキサス州のゴールデングローブで優勝した実績を持つ〔。プロレスファンの叔父の勧めでヒューストンのプロモーターだったポール・ボーシュにコンタクトを取り、プロレスラーのダニー・マクシェインのトレーニングを受けて1956年にデビュー。当初は「ジョン・アルバーノ」なるイタリア系レスラーとして売り出される予定だったが、インディアンの出自をもとに "アパッチ" ブル・ラモスをリングネームとした〔。 デビュー当時は100kgにも満たなかったものの、キャリアを重ねるにつれてスーパーヘビー級のウエイトとなり、その巨体を見込まれ1967年よりニューヨークのWWWFに登場。翌1968年2月19日、新造されたマディソン・スクエア・ガーデンでのオープニング興行において、メインイベントでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。以降もサンマルチノとは東部各地で抗争を繰り広げ、エドワード・カーペンティア、スパイロス・アリオン、ビクター・リベラ、ヘイスタック・カルホーンとも対戦。タッグではキラー・コワルスキー、プロフェッサー・タナカ、バロン・シクルナ、ルーク・グラハム、ケンタッキー・ブッチャーなどのヒール勢と共闘した〔。 1969年からはロサンゼルス地区に進出し、当時西海岸で大旋風を巻き起こしていたミル・マスカラスと熾烈な抗争を展開。マスカラスの覆面を破り裂き、髪と覆面を賭けて闘う「ヘアーvsマスク(カベジェラ・コントラ・マスカラ)」の遺恨戦に持ち込むも、試合に敗れ髪の毛を切り落とされた〔。マスカラスとは、得意のチェーン・マッチでも闘ったことがある〔『別冊ゴング 1978年5月号』P134-137「ミル・マスカラス思い出の名勝負 海外編3」(1978年、日本スポーツ出版社) 〕。1970年はテキサス西部のアマリロ地区にて活動、7月1日にテリー・ファンクからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取し、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦。ワフー・マクダニエルとのインディアン・ストラップ・マッチも行われた。1971年はロサンゼルスに戻り、ミル・マスカラスとの遺恨戦を再開。当時ベビーフェイスのポジションにいたフレッド・ブラッシーとも抗争した。 1972年より、オレゴン州ポートランドおよびワシントン州シアトルを拠点とする太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングを主戦場に活動。ダッチ・サベージやジミー・スヌーカを抗争相手に、フラッグシップ・タイトルのNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を通算4回獲得した。その間、テキサスをはじめオクラホマやニューメキシコなど南西部のテリトリーにも参戦。1974年には同じメキシコ系アメリカ人のリッキー・ロメロとロッキー・マウンテン・ヘビー級王座を争い、同年4月にはトライステート地区にてリップ・タイラーから北米ヘビー級王座を奪取した。 一貫してヒールだったラモスだが、1978年にダラス地区でベビーフェイスとなり、12月17日にタイガー・コンウェイ・ジュニアと組んでマーク・ルーイン&キラー・カール・クラップを破りNWAテキサス・タッグ王座を獲得。しかし、翌1979年にはヒールに戻って古巣のロサンゼルスを襲撃、6月28日にアル・マドリルからNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取した。1980年はビル・ワットが主宰していたMSWAにて、因縁のワフー・マクダニエルをはじめ、テッド・デビアス、ポール・オーンドーフ、ジェリー・オーツ、ジャンクヤード・ドッグらと対戦、3月26日にはマイク・シャープを破りミシシッピ・ヘビー級王座を獲得している。 1982年に膝を負傷して現役を引退〔。リタイア後は地元のヒューストンで救援サービス業に就いていた。2006年5月27日、肩の感染症により死去〔。〔。晩年は糖尿病の影響で足を切断し、盲目となっていた〔。1970年代にテキサスやロサンゼルスで闘ったチャボ・ゲレロのホームページ上での弔辞によると、ラモスは周囲を陽気にさせるムードメイカーであり、ドレッシングルームの規律を正す牢名主的存在でもあったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブル・ラモス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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