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ブルース・ボウエン(Bruce Bowen,Jr. , 1971年6月14日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州マーセド出身の元バスケットボール選手。身長201cm、体重91kg。ポジションはスモール・フォワード。NBAのサンアントニオ・スパーズなどに所属していた。マークされた選手が嫌になるほど粘着質なディフェンスと、ひたすらオープンになるのを待ちコーナーからの3ポイントシュートを狙う、というニッチな技術に特化した「職人」のような選手と評価された。2012年、ボウエンの12はスパーズの永久欠番となった。 == 経歴 == カリフォルニア州立大学フラートン校で4年間プレーし、通算得点で大学歴代12位、通算リバウンドで同7位を記録、1992-93シーズン(4年生時)には大学が所属する地区の1stチームに選出されたが、NBAドラフトにはかからなかった。 1993年大学卒業後、プロ生活の始まりはフランスリーグのル・アーブルやエブルーブザンソンとCBAを行き来する。 フランス時代は1試合平均28点でオフェンスの要。ボウエンがおよそ21歳~22歳のときのプレーを当時12歳~14歳、フランス出身でエブルーを近くに住んでいた現サンアントニオ・スパーズの正PGのトニー・パーカー が見ていた。 1996-97シーズンにマイアミ・ヒートで、NBAデビューを果たすが、この年は1試合、1分の出場に止まった。 1997-98、1998-99シーズンはボストン・セルティックスに所属。ボストンでの1年目は60試合に出場し(先発9回)、1試合平均の出場時間も20分を超えたが、翌年はケガもあり30試合の出場、平均出場時間も16.5分に止まった。 1999-2000シーズンはフィラデルフィア・セブンティシクサーズの一員として開幕を迎え、42試合に出場するが、出場時間は平均7.4分と前年を更に下回り、2月16日にはシカゴ・ブルズへと放出され、2日後に解雇となった。しかし直後にマイアミ・ヒートと契約、ヘッドコーチのパット・ライリーに「オフェンスで成功するのは遅すぎるが(当時28歳)、リーグで長く活躍したいのなら、全力をあげてディフェンス磨け、そして相手チームに恐れられるようなストッパーになれ」とアドバイスを受け、過去の名だたるペリメーターディフェンダー(レイカーズのマイケル・クーパーや76ersのボビー・ジョーンズら)のビデオを見てディフェンスのテクニックを研究した。そのディフェンスに対する努力を認められ、パット・ライリーに見出され27試合に出場、平均21分のプレータイムが与えられ、46.6%と高確率な、コーナーからの3ポイントシュートとディフェンスはヒート及び彼自身の強力な武器となった。 2000-01シーズンは全82試合に出場、うち72試合で先発とレギュラーに定着し、オールディフェンシブ2ndチームに選出される活躍で、大黒柱のアロンゾ・モーニングを欠いたチームのプレーオフ進出に貢献した。 2001-02シーズンからはサンアントニオ・スパーズに加わり、ディフェンスの要として2003年、2005年、2007年の3度の優勝に大きく貢献した。 2008年3月ニューオーリンズ・ホーネッツのクリス・ポールへのファールで1試合の出場停止処分が下されるまで、500試合スターターでの連続出場記録をもつ、タフなフィジカルを持っていた。 しかし、2008-09シーズンは体力の衰えから全盛期のようなプレイができず、出場した80試合のうち僅か10試合しか先発出場しなかった。 シーズン後、カート・トーマス、ファブリシオ・オベルトと共にミルウォーキー・バックスへ放出されたが、バックスでのプレーを拒否したために、後日解雇された。 そして2009年9月3日、現役引退を発表した〔Bowen retires from NBA 〕。引退会見で「きっと多くの人が喜んでると思うよ」と述べている。また、いままでに意図的にダーティーなプレーをしたのは2006年3月のシアトル・スーパーソニックス戦でレイ・アレンを蹴ったプレーだけだと述べた。そしてそのプレーのことをいまでも後悔していると語った。 11月からESPNでアナリストをしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブルース・ボウエン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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