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ブルーノ・タウト : ミニ英和和英辞書
ブルーノ・タウト[ぶる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブルーノ・タウト : ウィキペディア日本語版
ブルーノ・タウト[ぶる]

ブルーノ・タウトBruno Julius Florian Taut1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツ東プロイセンケーニヒスベルク生まれの建築家都市計画家鉄のモニュメント1910年)、ガラスの家1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。
晩年はナチスの迫害により、亡命先を探していた際に、上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会から招聘を受け、1933年に来日し3年半滞在した。当時の日独関係上、日本政府から公的な協力が得られなかったことから、しかるべき公職が得られず、トルコ政府の招きにより転地し、当地で没した。
== 人物・来歴 ==
ブルーノ・タウトは父ユリウス・ヨーゼフ・タウト、母ヘンリーテ・アウグステ・ベルタ・タウトの第三子として1880年5月4日に生まれた。ケーニヒスベルクの建築学校を卒業後、ベルリンのブルーノ・メーリンク、シュトゥットガルトのテオドール・フィッシャーの設計事務所勤務を経て、1909年、ベルリンで建築設計事務所開業。1910年ドイツ工作連盟に参加。ライプツィヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる。また1919年に、アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想『アルプス建築』や『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。
1924年から携わったブリッツジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受けた。当時、第1次世界大戦で敗戦国として製品を作ることで賠償金を支払っていたドイツでは、労働者が劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであった。住宅供給公社ゲハークに就職したタウトは、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924年から1931年の8年間で12000軒の住宅建築に関わった。1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の教授に就任。
革命への憧れをもっていたタウトは、1932年から1933年までソ連で活動するが、建築界の硬直性に直面し、結局ドイツに帰国する。ところが、その直前にドイツではナチスが政権を掌握。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道ウラジオストックに到達し、海路で日本の敦賀に上陸した。祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月、日本を訪れ、そのまま亡命した。
来日の翌日、桂離宮へ案内された。桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎の達磨寺境内の洗心亭で過ごした。群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、和紙漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の商人・日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。
1936年に近代化を目指していたトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住。首都であるアンカラアンカラ大学文学部など教育機関建築の設計、イスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍した(そのほとんどは現存している)。1938年に長年患っていた気管支喘息のため死去した。最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。タウトの遺体はエディルネ門墓地に葬られた〔ブルーノタウトの会 タウト理解のために~高弟・水原徳言 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブルーノ・タウト」の詳細全文を読む




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