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ブレダの開城 : ミニ英和和英辞書
ブレダの開城[ぶれだのかいじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

開城 : [かいじょう]
  1. (n,vs) capitulation (of fort) 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 

ブレダの開城 : ウィキペディア日本語版
ブレダの開城[ぶれだのかいじょう]

ブレダの開城』(ブレダのかいじょう、''La rendición de Breda'', ''Las lanzas'')は、ディエゴ・ベラスケスによる絵画。1634年から1635年に描かれた。1625年6月5日のブレダ陥落を成し遂げたイタリア生まれの将軍アンブロジオ・スピノラとともにイタリアを訪れたことが、この絵の制作のきっかけとなっている。『ブレダの開城』はベラスケスの代表作の1つである。ジャン・モリスはこの絵を「あらゆる絵画の中でも最もスペイン的な1枚」〔Jan Morris 1964: "Spain", p.29〕だと評している。
==歴史==
1625年のブレダ陥落は、八十年戦争後半において数少ないスペイン軍大勝利の1つである。ジェノヴァの貴族でスペイン軍の将軍であったアンブロジオ・スピノラは、上司の指示を無視してブレダを占領した。ブレダ占領の前にスペイン政府は、北海沿岸低地帯の堅牢な都市に包囲戦を仕掛けるのは金の浪費だ、ネーデルラント連邦共和国の経済封鎖に集中すべきだ、という方針を既に決定していた。この段階でスペイン軍の大部分は、大きく展開する三十年戦争の方に振り向けられていた。
ブレダは国境線近くにあるオランダの都市で、1567年以来アルバ公の支配を受け、10年後に奪還されるも再び襲撃を受けた。町はオラニエ=ナッサウ家の所領で、彼らが築いた堅固な城は「Vale of Tempe」と呼ばれた。1624年、ドイツでの戦争が停戦となり、スペイン軍はその勢力をブレダに集中させることができた。難攻不落で知られる要塞を攻撃することは賢明ではないという考え方が主流だったが、アンブロジオ・スピノラはブレダに向かうという非常に重要な判断を下した。レガネス侯爵ディエゴ・フェリペ・デ・グスマンと、カルロス・コロマもスピノラに就いてブレダに向かった。
スピノラが軍功を立てたのは、1604年にフランドルオーステンデを陥落させて金羊毛勲章を得たときである。したがってブレダの包囲は、オランダとスペインの交戦であるだけではなく
:「スピノラとオランダのナッサウという2大将軍の激突でもあった。双方とも要塞の攻防を熟知しており、その評判のかかる戦いであった。」
オランダ側の名将オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッサウはスピノラと互角の戦いを交わしていたが、包囲戦が終了する前に死亡していた。その後を継いだオラニエ公フレデリック・ヘンドリック〔ただし、絵の中央でスピノラが肩に手を置いて労わっている敗軍の将は、マウリッツおよびフレデリック・ヘンドリックの庶出の兄でブレダ司令官のユスティヌス・ファン・ナッサウである。〕はオランダ軍の勢いを盛り返そうとしてうまくゆかず、最終的に5月に降伏した。「ブレダの敗北」の語は当時の高潔さと寛大さを表していた。
スピノラの勇猛と成功に感化されてベラスケスの描いた絵が『ブレダの開城』であった。ベラスケスがこの絵を描いていた頃、既にブレダはオランダに奪還され、スピノラも死去していた。スピノラが死去したのは1630年の秋、彼がベラスケスとともにイタリアへ航海したわずか1年後のことであった。ベラスケスは『ブレダの開城』を、スペイン国家とスピノラへの敬意を表して描いた。
ディエゴ・ベラスケスとアンブロジオ・スピノラが非常に親密になったのは
:「1629年、バルセロナからジェノバへの旅の途中であった。画家はなによりもブレダ包囲がもたらした悲劇的結末に心を動かされた。この旅のすぐ後、不名誉にもスピノラは財産を失う羽目になったのである。彼の軍功さえも中傷を受け、スピノラは間もなく失意のうちに墓に入ったのである。」
ベラスケスは、スピノラの死後かなり気分を消沈させ、彼の名誉を回復したいと考えた。ベラスケスはスピノラと知り合ったことで、亡きスピノラへの賛辞として『ブレダの開城』を描いたのであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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