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ブレッソン ( リダイレクト:ロベール・ブレッソン ) : ウィキペディア日本語版
ロベール・ブレッソン

ロベール・ブレッソンRobert Bresson1901年9月25日 ブロモン=ラモト - 1999年12月18日 パリ)は、フランス映画監督脚本家である。
== 来歴・人物 ==
1901年9月25日、フランス・ピュイ=ド=ドーム県ブロモン=ラモトで生まれる。
映画監督になる前は画家、写真家として活躍した後、数本の作品に助監督、脚本家として参加。1934年中篇『公共問題』で監督デビューするものの仕上がりが気に食わずすべて廃棄処分にしてしまう。その後、第二次世界大戦に従軍するもののドイツ軍の捕虜となってしまい、その収容先で知り合った司祭より映画の制作を依頼され、終戦後に『罪の天使たち』を制作、この時点でのちの職業俳優を一切使わないブレッソン流の演出を確立。『ブーローニュの森の貴婦人たち』の制作後にジャン・コクトーらとともに、後の「カイエ・デュ・シネマ」の母体とも言うべき組織「オブジェクティフ49」を創設するも、後に袂を分かつ。以降、寡作ではあるものの着実に数年おきに各作品を製作、公開。世界中の数々の映画賞を受賞し、広くその名を世間に知られることになる。
ブレッソンは芝居がかった演技を嫌い、初期の作品を除き出演者にはプロの俳優の人工的な演技行為の意味や感情をあらわすことをひどく嫌ったため、その作品限りの素人ばかりを採用〔中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書 2003年p.152)。〕し、出演者を「モデル」と呼んだ。音楽はほとんど使用せず、感情表現をも抑えた作風を貫くなど、独自の戒律に基づいた厳しい作風が特徴〔中条省平は「そうした徹底して禁欲的な映画作りは、運命(神の意図)は絶対に不可知であるがゆえに逆に「すべては恩寵である」(『田舎司祭の日記』)という考えかたとふかく結びついています。それはいわば極端な汎神論の逆説的なあらわれであり、それによって、象徴なき象徴主義とでも呼びたくなるような厳密な美の世界を結晶させています」という(『フランス映画史の誘惑』p.153)。〕。そうした自らの作品群を「映画」とは呼ばずに「シネマトグラフ」と総称した。素人として参加した出演者の中には(マリカ・グリーンフランソワ・ルテリエドミニク・サンダアンヌ・ヴィアゼムスキー)等、そのまま映画界に留まる者もいる。
いわゆる前衛の監督ではないが、極限まで虚飾を廃して大胆かつ慎重に作り上げられた繊細な各作品は、その異様で静かな迫力によって他の映画人を震え上がらせ、そして一般の観客にはなんらかのかたちで「映画とは何か」という問いかけを感じさせずにはおかないという点で、きわめて特異な作家であるといえる。
1995年、第二回ルネ・クレール賞受賞。1999年12月18日、パリで死去。。
著名な写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンと血縁関係はない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロベール・ブレッソン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Robert Bresson 」があります。




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