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ブロニスワフ・マリア・コモロフスキ(Bronisław Maria Komorowski, 1952年6月4日 - )は、ポーランドの政治家。前大統領(第三共和政第5代)。元国防相(第三共和政第10代)。2005年から2007年までセイム(ポーランド下院)副議長を務め、2007年11月5日から2010年7月8日までセイム議長に就任。2010年4月10日ポーランド空軍Tu-154墜落事故発生によるレフ・カチンスキの死去に伴い、大統領代行に就任した。コルチャック家紋のマグナート(大貴族)の家系である。 市民プラットフォーム党の副総裁で、2010年10月に行われる予定であった大統領選の候補者であったが、それに先立つ4月10日に発生した「ポーランド空軍Tu-154墜落事故」により、選挙は6月20日に繰り上がった。レフ・ワレサとタデウシュ・マゾヴィエツキからも個人的な推薦を受けた。 == 青年時代まで == ドルヌィ・シロンスク県の街オボルニキ・シロンスキェにて、「コルチャック」紋章を持つ高貴な家柄のコモロフスキ家に生まれる。コモロフスキ家はシュラフタ(ポーランド貴族)の伝統ある家柄で、有能な政治家と軍司令官を輩出するとして何世代にもわたって(シュラフタ制度が廃止された現代においても)ポーランド全土から尊敬と信頼を得ている名家中の名家の一つである。父はジグムント・レオン・コモロフスキ伯爵(1924-1993)、母はヤドヴィガ(結婚前の姓はシャルコフスカ、1921年 - )。コモロフスキ家の起源は北東リトアニアのアウクシュタイティヤ地方で、新たに本拠となったポーランド南部のジヴィエツチズナ地方の領地に移ってからはかの地を2世紀以上治めていた。一族には第二次世界大戦のときワルシャワ蜂起などで占領者であったナチス・ドイツに戦いを挑んだロンドン・ポーランド亡命政府系「ポーランド国内軍」の最高司令官(1944年)および冷戦期を通じて西側自由主義陣営に属し1989年まで活動した同ポーランド亡命政府首相(1947年 - 1949年)を務めたタデウシュ・コモロフスキがいる。 一家は1957年から1959年にかけてオトフォツク市近郊のユゼフフに居住。ブロニスワフは1959年から1966年にかけてはプルシュクフで義務教育を受ける。1966年にワルシャワに引越し、その後ワルシャワ市第24高等学校(ツィプリアン・カミル・ノルヴィド高等学校)を卒業。 少年時代は毎年夏はボーイスカウトに参加。プルシュクフの第75マゾフシェボーイスカウト団に所属。第208ワルシャワスカウトチーム(「傘」大隊)モコトフ分団の教官になり、そこで知り合った女性アンナ・デンボフスカとその後結婚することになる。 1977年、ワルシャワ大学文学部歴史学科を卒業。1977年から1980年からカトリック系ではあるがカトリック教会からは独立して活動している日刊新聞「普遍的な言葉」の編集に従事。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブロニスワフ・コモロフスキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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