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フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel、1902年8月24日 - 1985年11月27日)はフランスの歴史学者。経済状態や地理的条件が世界史において果たす役割に注目し、20世紀の歴史学に大変革を起こした。 == 生涯 == === 出生から青年期まで === 20世紀最大の歴史家のひとりとして数えられるフェルナン・ブローデルは、1902年、北仏ムーズ県のバル=ル=デュックの40キロメートル南方に位置する小さな農村リュメヴァル=アン・オルノワ(''Luméville-en-Ornois'')で生まれた。父シャルル・イレール・ブローデルは小学校の教師をしていた〔浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.228-229〕。ブローデルの生まれた村はドイツ国境に近いロレーヌ地方に位置しており、虚弱児と診断されたブローデル〔ポール・ブローデル「歴史家ブローデル誕生秘話」『入門・ブローデル』(2003)p.181〕は、そこで祖母に預けられ、輪作や水車小屋、鍛冶屋のしごとなどを体験し、幼少のときから普仏戦争やクリミア戦争の体験者の話を聞いて育った〔〔。1909年、父の転勤にともないパリ郊外のメリエルの小学校に入学した。ここで映画俳優ジャン・ギャバンとは同級生であった〔。第一次世界大戦におけるフランスの愛国的な雰囲気のなかで青年期をむかえ、進学したリセ(官立高等中学校)では漠然と医者になることを考えていたという〔。リセ・ヴォルテール卒業後はパリのソルボンヌ大学歴史学科に進み、地理に関心をもった〔浜名優美「ブローデル小伝」『入門・ブローデル』(2003)p.230〕。そこでは、歴史家であり経済史家であるアンリ・オゼール(''Henri Hauser''、1866年 - 1948年)などの講義を受けた。 === リセ教師から研究者へ === 卒業後は、1923年から1926年まではアルジェリアのコンスタンティーヌ、1926年から1932年まではアルジェでリセの教壇に立ち〔生徒のなかにはアルベール・カミュ、ジャック・ベルク、ポール・ロベールなどがいた。〕、地中海世界に強い関心を抱く契機となった。この間、1925年と1926年には兵役によりラインラントを広く旅し、ドイツについて見聞を深める機会を得た。その後、1932年から1935年にはパリのリセの教師を務めた〔この時期にブローデルが勤務したリセは、ヌイイ=シュル=セーヌの''Lycée Pasteur de Neuilly-sur-Seine''、パリ8区の''Lycée Condorcet''、パリ5区の''Lycée Henri-IV''であった。〕。この間、1927年にはリセの学監の娘であったポーレット・ヴァリエと結婚したが離婚、そののち、1933年にはアルジェ時代の教え子であったポール・ブラデル(当時18歳)〔彼女の本名は、初婚相手と同じ「ポーレット」であったが、通常は「ポール」と呼称している。〕と再婚した。 1935年から1937年にかけて、フランス政府の命令でブラジルのサンパウロ大学で教壇に立ち〔人類学者レヴィ=ストロースとは、サンパウロ大学で同僚だった。〕、1937年からはパリ高等研究実習院(EPHE)〔。パリ大学(ソルボンヌ大学)の大学院に相当する。〕の第4部門に勤務することとなり、歴史哲学の研究にたずさわることとなった。 1929年に歴史学誌『社会経済史年報(''Annales d'histoire economique et sociale'')』を創刊した歴史学者で、終生、ブローデルの「精神的な父」であった〔リュシアン・フェーヴルとは1937年に出会った。フェーヴルの同僚で『年報』創刊に携わり、ユダヤ人であったため1944年にナチスによって銃殺されたマルク・ブロックとの親交が始まったのもこの頃であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フェルナン・ブローデル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fernand Braudel 」があります。 スポンサード リンク
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