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ブン・ウム : ウィキペディア日本語版
ブン・ウム

ブン・ウム・ナ・チャンパーサック(Boun Oum Na Champassak, 1911年12月2日山田「第4節 用語」 〕〔生年月日を11月11日とする記述もある。http://www.royalark.net/Laos/champasa2.htm〕 - 1980年3月17日)は、ラオスの王族、政治家。旧チャンパーサック王家の末裔で、ラオス内戦期における親米右派勢力の代表格。ラオス王国首相を2度務めた。殿下 (Sadet Chao) の称号を持つ。
== 経歴 ==
1911年、フランス支配下のチャンパーサックにおいて、最後のチャンパーサック王ブア・ルパアン・ラーチャナダイ殿下の第3王子として生まれる。教育はサイゴンで受け、やがてラオスで行政官吏を務める。
日本占領下の1945年、抗日運動に参加。同年11月、ラーチャナダイの死去によりチャンパーサック家の当主となる。
日本の降伏後、フランスに抵抗するラーオ・イサラ(自由ラオス)勢力と、フランスに協力的な国王派に分裂していたが、ブン・ウムはラオス南部においてフランスの復帰を支援した〔スチュアート-フォックス(2010年)、97ページ。〕。しかし、1946年8月27日のラオス=フランス協定(ラオス統治暫定協定)により、ルアンパバーン王を君主とする「ラオス王国」の建設が認められると、ブン・ウムはチャンパーサック王位の継承権を放棄させられた。その代わりとして、ラオス王国の終身王国総監の地位が与えられる〔上東(1990年)、105ページ〕。
1947年、国王評議会議長に就任。1948年3月25日、首相に就任した〔山田「第3節 関連資料」 〕〔就任日を「1949年3月21日」とする記述もある。山田「第4節 用語」 〕。1949年7月のフランス=ラオス協定によりフランス連合内でのラオスの独立が認められ、恩赦により元ラーオ・イサラのメンバーが帰国すると、1950年2月2日、国民統合という大義名分のために退陣した〔スチュアート-フォックス(2010年)、119ページ。〕〔山田「第3節 関連資料」 〕〔退任日を「2月28日」とする記述もある。山田「第4節 用語」 〕。
1959年12月末、軍部右派のプーミ・ノサワン将軍が軍事クーデターを起こし、プーイ・サナニコン政府を辞職に追いやると、ブン・ウムはこれに反発する。結果として軍部独裁を阻止し、1960年1月のコウ・アバイ暫定政府の樹立を助けた〔スチュアート-フォックス(2010年)、170ページ。〕〔木村(2007年)、81ページ。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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