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ブーサイード朝()は、18世紀からオマーンを統治する王朝。過去にはザンジバルなどの東アフリカの沿岸地域を支配していたが、1964年のザンジバル革命でアフリカの政権は消滅した。 この項目では主に王朝の創始から1970年のカーブース・ビン・サイードの即位までの歴史について記述する。 == 歴史 == === 王朝の創始 === 王朝を創始したブーサイード族は、オマーンの主要部族であるアズド族の流れを汲む〔遠藤『オマーン見聞録』、12-13頁〕。 オマーンでは17世紀初頭にヤアーリバ朝が建国され、ヤアーリバ朝の支配は東アフリカ沿岸のザンジバル、モンバサに及んでいた。1720年頃にオマーン本土で起きた内乱によってヤアーリバ朝は衰退し、在地のオマーン人が勢力を増した東アフリカ沿岸部の都市は統制が行き届かなくなっていた〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、127頁〕。ヤアーリバ朝の内乱はイランのアフシャール朝の介入を招き、1737年にアフシャール朝の君主ナーディル・シャーによってマスカットなどの都市が占領される。ソハール(スハール)の防衛にあたっていたブーサイード族のアハマド・ビン・サイードはイラン軍を撃退し、戦後アフマドは政治的影響力を高めていった〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、135-136頁〕。アハマドはイバード派のイマーム(宗教指導者)となり王朝を創始するが〔福田「ブーサイード朝」『岩波イスラーム辞典』、842頁〕、即位の時期は史料によって異なる〔松尾『オマーンの国史の誕生』、3,25頁〕。 アハマドの死後に彼の子の一人であるサイード・ビン・アハマドがイマームに就任し、サイードの子ハマドはイマームに就任することなくマスカットを支配した〔松尾『オマーンの国史の誕生』、9-10頁〕。1792年にハマドが天然痘で病没した後、サイードの兄弟であるスルターン・ビン・アハマドがマスカットを占領する〔松尾『オマーンの国史の誕生』、9頁〕。ブーサイード朝のアラビア半島内陸部への支配は強固なものではなく、権力・財政の基盤は内陸部の町や村から徐々に移っていき、1780年代に首都を内陸部のからオマーン湾に面するマスカットに移転した〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、136-137頁〕。ヤアーリバ朝以来、住民の過半数を占めるイバード派の指導者であるイマームが国家を統治していたが、内陸部を離れたブーサイード朝は従来のイバード派を柱とする統治を転換した〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、124,137頁〕。マスカットを支配したハマド、スルターンらはイマームの称号を使用せず、より世俗的なサイイドの称号を使用した〔松尾『オマーンの国史の誕生』、10頁〕。1821年にサイードが没した後、スルターンの子サイイド・サイードはイマームの称号を継承せず、サイイドを名乗り続けた〔。 スルターンの時代にブーサイード朝はインド洋沿岸、ペルシア湾岸に勢力を拡大し、スルターンの即位直後にグワーダルを中心とする地方がブーサイード朝の支配下に入る〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、137頁〕。海洋交易の振興を図るスルターンの方針は、フランスの影響力を除いてペルシア湾の交易路の独占を図るイギリスの思惑に合致していた〔小串『王国のサバイバル』、76頁〕。1798年10月、オマーンとイギリス東インド会社の間でフランスの勢力をマスカットから排除する旨の条約が締結され、1800年にオマーンはイギリス東インド会社の社員のマスカットへの常駐を承認した〔松尾『オマーンの国史の誕生』、35頁〕。 内陸部を離れたブーサイード朝が海上交易に力を入れる一方で、ナジュドのサウード王国がオマーン北西部に侵入し、北西部の沿岸部はサウード朝の支配下に置かれる〔。ブライミー、ラアス・アル=ハイマなどの北西部の都市はサウード王国の支配下に入り、孤立したスルターンはサウード王国への貢納を行って服属の意思を示した〔小串『王国のサバイバル』、77頁〕。海上での優位を確立するため、1800年にスルターンはへの遠征を行い一時的に島を占領するが、翌1801年にサウード王国の支援を受けた勢力によって島を喪失する〔。1804年末にスルターンはサウード王国を共通の敵とするオスマン帝国の支援を受けようと試み、オスマンのバグダード総督と共同作戦の協議を行うためにバスラを訪れたが、帰路でラアス・アル=ハイマの海賊集団の攻撃を受けて落命した〔。スルターンの死後、かつてサウード王国の保護を受けていたスルターンの甥バドル・イブン・サイフが、サウード王国によって王位に就けられた。サウード王国に恩を感じるバドルはオマーンでの支配を確立するため、ワッハーブ派の布教を図った〔小串『王国のサバイバル』、78頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブーサイード朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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