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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
プジョー・205ターボ16 (205T16) は、プジョーが世界ラリー選手権 (WRC) に参戦する目的で開発したラリーカー。 WRC参戦に必要なホモロゲーションを受けるため、グループB規定にのっとって200台のロードカーが製造・販売された。ロードカーの販売価格は29万フラン(当時のレートで800万円前後)であった。マーケティング効果を狙って、1983年に発表された市販大衆車であるプジョー・205に外観を似せて設計されたが、機械的構造から性能に至るまで、まったくの別物である。 == 概要 == 1981年、コ・ドライバーとしてのキャリアにピリオドを打ったジャン・トッドが、新設されたプジョーのモータースポーツ部門であるプジョー・タルボ・スポールのスポーティングディレクターに就任し、グループBでのWRC参戦に向けた車輌を開発するM24-rallyeプロジェクトから205ターボ16は生まれた。 設計主任は、後にル・マン24時間レースのウィナーとなるプジョー・905を設計したほか、トヨタF1チームでも辣腕を振るったアンドレ・ド・コルタンツ、エンジニアとして、後のパリ・ダカールラリーを制するシトロエン・ZXグランレイド、現代のWRCにおいて不朽の名マシンとして後世に残るであろうシトロエン・クサラWRカー、シトロエン・C4・WRカーを設計したジャン・クラウド・ボカールなど、開発に携わった人々は、その後も一線で活躍したそうそうたる顔ぶれである。 ジャン・トッドはWRCにてアウディ・クアトロで目覚しい実績を挙げていた四輪駆動(4WD)を、躊躇なく205ターボ16に組み込むことと同時に、エンジンをミッドシップ化することを決定した。これは、当時のフロントランナーであったフロントエンジン4WDのアウディ・クアトロの旋回性能に問題があることを見抜いていたためである。しかし当時のラリーでは、ミッドシップ車こそ複数車種あったものの4WD車はアウディ・クアトロがようやく登場した時期であり、ミッドシップエンジン4WDというレイアウトと駆動形式の組み合わせは未知の世界であった。そのため、エンジンやギアボックスなどを、プジョー・205のミッドスペースという限られたスペース内においてどこに配置するかというレイアウトの問題のほか、4WD機構のスペシャルステージにおける耐久性など、信頼性が未知数であったことから、この決定は社内でも大きな議論を呼んだ。しかし、これらの決定は後のグループBのマシンレイアウトの王道となり、彼の慧眼によって205ターボ16はWRCで大成功を収めるのである。 現在でも半ば伝説的な最速のレースカテゴリーとして名高い、グループBによるWRC最後の2年間は、最も過激で、競技車が圧倒的なパフォーマンスを示したことで有名である。205ターボ16は、そのグループB最速の2年間において、ドライバーズ、マニュファクチャラーズの両タイトルを決して譲ることなく制し続けた、グループB最強のラリーカーである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プジョー・205ターボ16」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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