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プッタタート比丘(; ; パーリ語:Buddhadāsa Bhikkhu、1906年5月27日 - 1993年7月8日)はタイの高名な仏教僧。パーリ語に従ってブッダダーサとも称される。〔欧米ではこちらの呼称が一般的である。〕 首都バンコクにて優秀な成績で仏教を修めるものの、自身の仏典解釈と伝統的な仏教教理の解釈との間にギャップがうまれ、故郷のスラートターニー県(タイ南部)に戻り、森林での冥想修行と研究をおこなう。これがスワンモーク(Suan Mokkhaphalaram の略称。Wikipediaにおける他の項目では、ワット・モーカーパララーム)と呼ばれる修行センターであり、現在でも世界の様々な地域から彼の共鳴者が出家・在家を問わず訪れ、仏教を学んでいる。〔1994年8月、西川潤(当時早稲田大学教授)の訪問時には、僧侶・俗人あわせて200名が常住、年間30万人以上の訪問者があり、全国的セミナーの開催もなされている、ということである。 (西川潤 編『アジアの内発的発展』藤原書店 2001)〕 彼の著作は全集200巻を超え、英語訳されたものだけで140冊に及ぶため、その思想の全貌が明らかになっているわけではないが、彼の思想のおもな特徴は、 *個々人の生活内での修行の実践を説いたこと *大乗仏教をはじめとする、他の宗教への肯定的態度を示したこと〔現在のタイの仏教は上座部仏教であり、日本などの東アジア諸国に広がった大乗仏教とは、戒律や教理に大きな違いがある。〕 *「仏法(仏教)社会主義(仏法共同体原理。タイ語の読みではthammik sangkhomniyom, 英語ではdhammic(buddhist) socialism:仏法に基づき、社会の利益を守る体制。社会活動で得られた余剰を社会全体のために使うこと)」を説いたこと などである。 この革新的な思想を批判する者も現れたが、特に「仏法(仏教)社会主義」は、「開発僧(かいほつそう:タイの急激な資本主義化による森林開発等の問題に、地域主体の立場から取り組む活動のリーダー的存在となった僧侶)」などの、社会的活動を行う人々の理論や実践に、プッタタートの思想は影響を与えたことも指摘されている。 ==生涯== 以下の記述は、主に野津幸治の研究成果に依拠している。〔野津幸治「プッタタート比丘の思想と生涯」(西川潤・野田真里編『仏教・開発・NGOータイ開発僧に学ぶ共生の智慧』新評論 2001所収)〕 *1906年5月27日、タイ南部のスラートターニー県チャイヤー郡プムリエン行政村に誕生。名はグアム・パーニット。父は乾物屋を営む中国系タイ人のシエン、母はタイ人のクルアン。弟ジークーイ(のちにタンマタートと名乗り、兄を援助する)、妹キムソーイがのちに生まれる。8歳の時、地元の寺に預けられ読み書きなどを学んだあと、小学校、中学校と進学する。しかし、22年の父の他界に伴い、中学3年で学校を去って店の手伝いをし、弟がチュラーロンコーン大学で医学を学ぶ費用を捻出した。 *1926年、ウボン寺(通称ワット・ノーク)で得度、3カ月間の予定でプムリエン寺(通称ワット・マイ)での出家生活を送る。(僧名:Phra Nayam Indapanno, タイ語の読みでは ~ Inthapanyo)以前から独学で仏教を学び教理に精通していた彼は、住職から説法を任されるようになるなど、周囲からの期待があり、また、プッタタート自身もさらに学問を続けたいという希望を強く持つことになった。弟が大学での学問を放棄して帰郷し、家業を継ぐことで兄を支えることになったため、出家生活を続行することになる。 *1928年、バンコクにて教理研究を開始。バンコクの僧侶の実態に失望しつつも、パーリ語を習得し、教法試験(Naktham)に合格するほか、科学・英語等の学習にも取り組む。 *1932年4月、プムリエンに帰郷。ブッダに近づこうとパーリ語の三蔵(経・律・論)を研究すればするほど、既存の解釈に賛同できず、教法試験にも不合格になったためである。弟の協力を得て、5月12日に修行のための〔プッタタートは、いわゆるヴィパッサナーの指導をすることはなかった、という。『実践の近道』(石井美恵子による訳)には、以下のようにある。「ヴィパッサナーと呼ばれるものよりも何よりも、最高のタンマの実践です。なぜなら今は、ヴィパッサナーという言葉に困り切っています。以前にも人に聞かれたとお話したことがあるように、どこへ行っても、『スアンモークではヴィパッサナーをするんですか』と聞く人があるのです。 考えてみてください。私はどう答えたらいいんでしょう。スアンモークではヴィパッサナーをするのですか、と聞くんです。あえてこのように尋ねる人がいるんです。質問者が言っているようなタイプのヴィパッサナーだったら、私のところにはありません。私はしません。したくもありません。 私に質問した人が言っているような意味のヴィパッサナーは、持つのも、するのも望みません。しかしこのような実践、私が、これがヴィパッサナーだと言うような、あるいはヴィパッサナー以上だと言うような実践は、ヴィパッサナー以上の成果のある行動です。私のところにあるのは、彼らがヴィパッサナーと呼ばないものばかりです。 なぜなら彼らは、ヴィパッサナーとは別のものだと理解しているからです。先生やアーチャンを敬う儀式から始まって、いろいろな形式や規定があり、いろいろな姿勢があり、ゆっくり歩いたり、腹の動きを感じたり、山ほどあります。他人に見える、他人が理解できる方式であり、規定です。こう見ることもできます。 誰がしても構いません。それもヴィパッサナーです。そしてそのタイプは、そのタイプのヴィパッサナーは、『自我』のタイプなのです。つまりヴィパッサナーをひけらかし、『俺』のヴィパッサナーを人に見せるので、どうにもならないものです。それが『俺』『俺の』を増やしているということを、彼らはまだ知らないのです。」〕森林寺院、スワンモーク(Suan Mokkhaphalaram の略称。スワンモークとは「自由・解放の園」" The Garden of Liberation"の意)をひらき、仏法の実践、教理研究と布教をすすめる。6月に起きた立憲革命(タイ)(民主革命とも)に強い影響を受けた彼は、「ブッダの召使い」という意味の「プッタタート」"Putthathat "を名乗るようになる。翌年、雑誌『仏教』を創刊。 *1943年、修行者の増大に伴い、同じチャイヤー郡のターンナムライ寺にスワンモークを移転。ブッダへの回帰を目指し、本堂なし、修行僧は1日1食といった修行スタイルを確立する一方で、布教や社会活動のための「魂の愉悦館」「彫刻館」といった施設も、長期にわたり建設してゆく。 *1944年、スラートターニー県布教部長となる。その後、タイのサンガ(出家者の和合集団)における役職を歴任する。 *1947年、慧能(638~713年 唐代における禅宗中興の祖)の著作のタイ語訳に着手する。禅籍に関しては、慧能のほかに黄檗希運(?~850年頃)の著作も、英語からタイ語訳への翻訳を行っている。 *1950年、タイ南部のボロマタートチャイヤー寺にて、ラーマ9世王の聖水注頂礼の祭主をつとめる。 *1954年、ミャンマーで開催された第6回仏典結集にタイのサンガ代表団の一員として参加、法話を行う。 *1962年、シリラート病院にて大乗仏教の空思想に関する法話を行う。以後、しばしば空思想に言及する。 *1963年12月および1964年2月、ククリット・プラーモート(後にタイ首相)との公開討論。ククリットは空思想は在家には非現実なものとする。一方、プッタタートは仏法の実践において、出家も在家も関係ないと説く。 *1964年(年次異説あり)、バンコクでダライラマ14世に会う。 *1967年、キリスト教神学校で、キリスト教と仏教について法話を行う。キリスト教への言及は、この後も断続的に続く。イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒との交流も長く続く。 *1972年1月(年次異説あり)、ダライラマ14世、スワンモークを訪問。法話を行う。ダライラマは、チベット仏教徒にとって、テーラワーダ仏教(上座部仏教)の説くアーナーパーナサティ(ānāpāna-sati:呼吸を見つめることによる気づき)などの冥想実習が、必要であると感じていたこともあり、アーナーパーナサティに関してのクリアーな見識をもつプッタタートとの話し合いが行われた。なお、ダライラマ14世が「ナーガルジュナ(龍樹。紀元150?~250?年頃活躍したインドの思想家。『中論』などの著作により、空思想を説く。)」と称した〔Pupul Jayakar. ''J.KRISHNAMURTI: A BIOGRAPHY''. London:Penguin Books, 1996.p.205〕ジッドゥ・クリシュナムルティをプッタタートはタイに招聘しようとしたが、その試みは実現しなかった。 *1973年11月、「仏法(仏教)社会主義 (仏法共同体原理。タイ語の読みではthammik sangkhomniyom, 英語では dhammic(buddhist) socialism)」に関する法話をスワンモークで行う。 *1980年、マハーチュラーロンコーンラーチャウィタヤーライ大学(仏教大学)より、名誉博士号を授与される。 *1985年、スワンモークにほど近い場所にInternational Dhamma Hermitageを創設。 *1993年7月8日、示寂。87歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プッタタート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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