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プファルツ=ノイブルク公(Herzog von Pfalz-Neuburg)は、1505年に創設され1808年まで継承された、神聖ローマ帝国の領邦君主の称号である。歴代の公は帝国内の有力諸侯の一人であった。 プファルツ=ノイブルク公が統治した領邦、すなわちプファルツ=ノイブルク公領(Herzogtum Pfalz-Neuburg)またはプファルツ=ノイブルク侯領(Fürstentum Pfalz-Neuburg)は、バイエルンのノイブルク・アン・デア・ドナウを首都とし、バイエルン地方に散在する面積合計約2,750平方キロメートルの地域であった。 == 歴史 == 1503年に下バイエルン=ランツフート公ゲオルクが死去すると、その遺領の相続を巡り、ゲオルクの娘エリーザベトの嫁ぎ先であるプファルツ選帝侯家と上バイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世(共にヴィッテルスバッハ家の別系統の家系)との間でランツフート継承戦争が勃発した。エリーザベトとその夫ループレヒトが病死した翌年の1505年に、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の仲裁で戦争は終結した。アルブレヒト4世が領土の大半と下バイエルン=ランツフート公位を継承したのに対し、エリーザベトの子(つまりゲオルクの外孫)のオットー・ハインリヒとフィリップには領土の残りの部分が与えられ、この幼い兄弟のため新たにプファルツ=ノイブルク公位が創設された。 オットー・ハインリヒとフィリップは未成年であったため、父方の祖父であるプファルツ選帝侯フィリップが1508年の死去まで、次いで叔父のフリードリヒ2世が1522年まで摂政を務めた。その後、兄弟は共同して統治に当たったが、先にフィリップが死去し、オットー・ハインリヒが単独の公となった。オットー・ハインリヒは、1556年に死去した叔父フリードリヒ2世からプファルツ選帝侯位(及び選帝侯領)を継承する。 1557年、オットー・ハインリヒはプファルツ=ノイブルク公領を、遠縁のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガングに譲り渡した。ヴォルフガングは長男フィリップ・ルートヴィヒにプファルツ=ノイブルク公を、次男ヨハン1世にプファルツ=ツヴァイブリュッケン公を継がせた。1608年、フィリップ・ルートヴィヒはプロテスタント同盟の結成に参加する。 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の娘でヨハン・ヴィルヘルムの姉と結婚していたフィリップ・ルートヴィヒは、義弟が子を残さず1609年に死去したことから、その遺領の継承をめぐってブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントと争った。新教連合の諸侯がブランデンブルク側に就いたため、フィリップ・ルートヴィヒは対抗上カトリック連盟側に移った。この争いは、1614年に両者がユーリヒ公国、ベルク公国とクレーフェ公国を分け合って終わった。フィリップ・ルートヴィヒの死後、長男のヴォルフガング・ヴィルヘルムがプファルツ=ノイブルク公領を継承、ズルツバッハを次男アウグストが継承し分家した。ヒルポルトシュタインは3男ヨハン・フリードリヒが継承したが、1644年に子のないまま死去し、アウグストの家系が遺領を相続した。 ヴォルフガング・ヴィルヘルムの子フィリップ・ヴィルヘルムはプファルツ選帝侯カール2世が子を残さず死去、プファルツ=ジンメルン家が断絶したためプファルツ選帝侯位も継承したが、2人の息子ヨハン・ヴィルヘルムとカール・フィリップが息子のないまま死去して、ヴォルフガング・ヴィルヘルムの家系は断絶、公位はアウグストの家系の傍系の生まれであるカール・フィリップ・テオドールへ受け継がれた。カール・フィリップ・テオドールはプファルツ選帝侯位、さらにはバイエルン選帝侯をも継承したが、子供がいなかったため、遠縁(最初の妻である従姉エリーザベト・アウグステの甥で、フィリップ・ルートヴィヒの末弟の子孫)のマクシミリアン・ヨーゼフへ選帝侯位と共に受け継がれた。マクシミリアン・ヨーゼフは1806年にバイエルン王に即位した後、1808年には公式にプファルツ=ノイブルク公位を廃止し、王位に統合した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プファルツ=ノイブルク公」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Palatinate-Neuburg 」があります。 スポンサード リンク
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