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プブリウス・デキウス・ムス(Publius Decius Mus、?-紀元前295年)は共和政ローマの紀元前4世紀後半から紀元前3世紀初頭にかけての政治家・将軍である。彼は第一次サムニウム戦争で活躍した同名の父プブリウス・デキウス・ムスの子であり、同名の子プブリウス・デキウス・ムスはエピロス王ピュロスと戦った。 第二次サムニウム戦争中の紀元前312年にデキウスはマルクス・ウァレリウス・マクシムス・コッリヌスと共に執政官職に就いた。リウィウスによれば、デキウスは病気のためにローマに残り、彼の同僚が戦争を指揮した。しかし、エトルリア人との戦争の不安のため、いざという時のためにデキウスは元老院の希望で独裁官に就任した。しかし、アウレリウス・ウィクトルは逆に、デキウスは最初の執政感触の時にサムニウム人との戦争に勝利してケレース神に戦利品を奉納したと伝えている〔アウレリウス・ウィクトル, 27〕。しかし、ウィリアム・スミスによれば、デキウスの勝利を祝した碑文から推測して、アウレリウス・ウィクトルの言葉からの捏造であるとされている。 紀元前309年にデキウスは独裁官ルキウス・パピリウス・クルソルの下でサムニウム戦争において使節として働き、翌紀元前308年には再び執政官(同僚はクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス)となった。この時はファビウスがサムニウム人、デキウスがエトルリア人との戦争を担当した。この時デキウスはエトルリア人との1年の休戦に反対した。 紀元前306年にデキウスはその時の独裁官プブリウス・コルネリウス・スキピオ・バルバトゥスの下で騎兵長官に、紀元前304年にはクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスと共にケンソルになった。デキウスは紀元前300年には神官職を平民に開放するオグルニア法を支持し、アッピウス・クラウディウス・カエクスと共に神官長に選ばれた最初のプレブスになった。 紀元前297年にデキウスは三度目の執政官(同僚は再びファビウス)となり、共に第三次サムニウム戦争を戦った。彼らは別々に進撃し、デキウスはアプリア人をマレウェントゥム近くで破った。翌紀元前296年にはプロコンスルとしてサムニウムで戦い続け、三つの都市を落とした。 紀元前295年にデキウスはまたしてもファビウスを同僚として四度目の執政官となった。その時ローマはガリア人、サムウム人、ウンブリア人、そしてエトルリア人の反ローマの共同戦線の脅威を受けており、サムニウムにいたデキウスは同僚を援助するためにエトルリアへと向った。ガリア・サムニウム連合軍とのセンティヌムの戦いでは左翼を指揮し、彼は自分の部隊がガリア人の攻撃で敗走し始めると、父の例に倣い、自らと敵軍を犠牲に捧げた。戦いはローマ軍の勝利で終わり、彼の遺体は壮麗な葬儀を受けた〔ibid, 27〕。 == 註 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プブリウス・デキウス・ムス2世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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