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プリメロ(''Primero'')はイギリス生産の競走馬。アイリッシュダービーとアイリッシュセントレジャーを制し、1936年に種牡馬として日本の小岩井農場によって購買され、1930年代から1950年代にかけて日本で多数の活躍馬を送り出し、日本競馬史に多大な事績を残す大種牡馬となった。 全兄にエプソムダービー、セントレジャーステークスなどの優勝馬Trigo、プリメロと同じくアイリッシュダービーとアイリッシュセントレジャーを制したHarinero、ドンカスターカップの優勝馬で、これも種牡馬として日本に輸出されたアスフオードがいる。 == 経歴 == 競走馬時代はアイルランドで走り15戦3勝。一般戦での勝利以外はいずれもアイルランドのクラシック競走で、アイリッシュダービーはパトリオットキングとの同着優勝であった。競走馬引退後、種牡馬シアンモアの後継を探していた小岩井農場によって購買される。購買価格は1932年に日本へ輸出されていた全兄アスフオード〔こちらは2頭の重賞優勝馬を出すにとどまった。〕の4万7850円を大きく上回る6万円で、これは当時の最新鋭戦闘機1機分という大金だった。 2年目の産駒からブランドソールが中山四歳牝馬特別(現・桜花賞)に優勝し、早々に八大競走を制覇すると、その翌年にはミナミホマレが東京優駿(日本ダービー)を制した。1949年にはトサミドリ、タチカゼの2頭でこの年の牡馬クラシックを全て制する快挙を成し遂げた〔それ以前にはダイオライトが三冠馬セントライトで成し遂げていたのみだった。〕。その後も1954年にはハクリヨウが日本競馬史上最初の年度代表馬と最良5歳以上牡馬、チエリオが最良5歳以上牝馬を受賞するなど活躍。晩年に至るまで日本を代表する第一級の種牡馬であり続けたが、1955年秋、疝痛をこじらせて25歳で死亡した。 リーディングサイアー争いでは常に上位に顔を出したが、1949年の2位(1位セフト)を最高に、最後まで首位獲得は成らなかった。しかし産駒の大レースでの強さにおいては当代随一を誇り、4頭の東京優駿優勝馬を筆頭とする産駒のクラシック競走通算15勝は、2000年代に入ってサンデーサイレンスに破られるまで半世紀以上に渡って最多記録として保持され続けた。 さらに最良の後継種牡馬となったトサミドリも多くの活躍馬を輩出し、国産種牡馬のエースとなる大成功を収めた。他の後継種牡馬も一定の成功を収め、競走馬としては大成することができなかったトビサクラが、日本馬として初めて海外の競走に優勝したハクチカラの父となるなど、広範に活躍した。しかしその後は輸入種牡馬に圧されて父系は急速に衰退し、現在ではプリメロの父系は完全に途絶えている〔孫のダイゴホマレやショウグン、アシヤフジが1980年代初頭まで種牡馬として供用されていた。アシヤフジの仔で、道営競馬で走っていたピンクラブリーという馬が最後の後継種牡馬だったが、競走馬になった産駒は確認できない。〕。しかしブルードメアサイアーとしても非常に大きな実績を残していたために、現在まで続く大牝系を築いたシラオキを初めとする多くの牝馬、牝系にその血が受け継がれており、現在でも血統図母系にしばしばその名を見ることができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プリメロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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