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アストゥリアス公()、アストゥリアス女公()〔アストゥリアス公の妃の正式な称号は。:es:Princesa consorte de Asturias参照。〕は、スペイン国王の推定相続人に与えられる称号。王太子に相当するが、ある時点で王家に該当する人物(性別不問)が居ない場合、スペイン国外にいる権利者がこの称号を帯びることもある。推定相続人以外の王子・王女にはの称号が与えられる。 フランシスコ・フランコが王政復古を前提にフアン・カルロスを後継者とした際には、アストゥリアス公ではなくスペイン公()の称号を用いた。 現在は1978年憲法第57条第2項で、国王の推定相続人に与えられることが規定されており、フェリペ6世の長女レオノールがこの称号を有している。 == 起源 == 王太子にこうしたプリンシペ()系の称号を名乗らせる慣習は、イングランド王太子が「ウェールズ公」(プリンス・オブ・ウェールズ)を名乗るという慣習を直接のモデルとして、14世紀に始まったものである。カスティーリャ王ペドロ1世が庶兄のエンリケ2世に殺された後、カスティーリャ王位はトラスタマラ家とペドロ1世の婿のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの間で争われ、20年に及ぶ内戦となった。この紛争の妥協策として出てきたのが両家の婚姻である。具体的には後のエンリケ3世とその妃でジョン・オブ・ゴーントの娘カタリナがそれぞれ「アストゥリアス公」「アストゥリアス公妃」の称号を名乗り、アストゥリアス公領を得たのである。アストゥリアス公領がこうした特別な立場に置かれた背景には、イベリア半島がムスリムに支配されていた時代にアストゥリアス王国がキリスト教徒の最後の牙城となり、後にレオン王国、カスティーリャ王国、スペイン王国へと発展していった直接の母体ともなったという歴史的事実がある。 なお、カスティーリャ王太子が自動的にアストゥリアス公領を得るという慣習は後にカトリック両王の意向で廃止され、アブスブルゴ朝やボルボン朝のスペインでは「アストゥリアス公」はあくまでも儀礼称号となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アストゥリアス公」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Prince of Asturias 」があります。 スポンサード リンク
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