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プロイセン自由州、もしくはプロイセン州(独:Freistaat Preußen)は、ヴァイマル共和政期及びナチス・ドイツ期に存在したドイツの州の一つ。 第一次世界大戦末期のドイツ革命でプロイセン王国が解体された後、プロイセンは自由州へと移行した。プロイセン州は当時のドイツの国土と人口の過半数を占め〔1925年時点での統計では、人口は38,175,986人(ドイツ全体の61.17%)、面積は292,695.36 km²(ドイツ全体の62.44%)であった。〕、ドイツで最も主要な州であった。州都はドイツ全体の首都でもあるベルリン。 第二次世界大戦後の連合軍占領期に廃止が命令された。西ドイツや東ドイツ、現在の統一ドイツには存在しない州である。 == 歴史 == プロイセン州は第一次世界大戦敗戦のため、プロイセン王国時代と比べてかなりの領土を失った。ポーゼン、西プロイセン、シュレージエン東部等がポーランドに奪われた。またダンツィヒは自由都市ダンツィヒとして国際連盟の管理下に置かれた。これらの領土の喪失により東プロイセンはドイツ本土から孤島のように切り離された状態になり、東プロイセンとドイツ本土との往来にはポーランド領であるポーランド回廊を横切るか海を経由するしかなかった。 ヴィルヘルム2世の退位後、プロイセン州はすぐにプロイセン王国時代のなどを廃止して全州民に平等に参政権が与えられるなどの改革を急速にすすめ、結果、プロイセン州は左翼勢力の拠点と化していった。特に州都ベルリンは「赤いベルリン」と呼ばれるほどに左翼が強力であった。1919年から1932年までプロイセン州政府はドイツ社民党、中央党、ドイツ民主党の連立政権で成り立っていた(1921年から1925年にかけてはドイツ人民党も連立に参加していた)。プロイセン州では他の州と違って民主的な政党が支持され続けていた。しかし東プロイセンやヴェストファーレンなどの農村部では国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が支持を集めた。 社民党のオットー・ブラウンは、1920年から1932年までわずかな期間をのぞいてほぼプロイセン州首相の地位にあり続け、保守派や右翼を抑圧し続けたが、1932年7月20日にドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンがプロイセン州が政府の命令を違反したことを理由にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領に緊急の命令を出させてを起こした。ブラウンはプロイセン州首相の座から追放され、他にプロイセン州内相カール・ゼーヴェリングやベルリン警視総監〔 ()〕、副警視総監ベルンハルト・ヴァイスなども追放され、プロイセン州政府内の「ヴァイマル共和国派」「反ナチ派」「左翼」は根こそぎ一掃された〔阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)200ページ〕。社民党はこれをもって保守・右翼勢力に屈し、ドイツ共産党が提案した首相パーペンへの対抗のためのゼネストへの参加も拒否した〔阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)200ページ〕。その後、ドイツ首相パーペンは、プロイセン州に帝国委員を設置し、自らが就任してプロイセンの統治にあたった〔阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)200ページ〕。 1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するとパーペンはドイツ副首相になるとともにプロイセン州首相に就任した。プロイセン州内相にはナチス党幹部のヘルマン・ゲーリングが就任した。さらに1933年4月にはパーペンから譲られてゲーリングがプロイセン州首相に就任した〔阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)231ページ〕。 ゲーリングは社民党系官吏の一掃するとともにルドルフ・ディールスを長官にプロイセン州秘密警察(ゲシュタポ)を創設させ、共産党員等の逮捕を進めた。さらに突撃隊員5万人、鉄兜団1万人をプロイセン州の補助警官として使用することを決定した〔阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)217ページから233ページ〕。ゲーリングは、プロイセン州を半ば「ゲーリング王国」化していったが、これは中央集権化を目指すアドルフ・ヒトラーの方針と食い違った。結局、1934年4月20日にゲーリングは、ゲシュタポの指揮権をハインリヒ・ヒムラーに引き渡すこととなり、ヒムラーの下でゲシュタポはプロイセン州に限らず全ドイツの秘密警察となる〔阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)269ページ〕。その後、プロイセン州及びプロイセン州首相の地位と権限は(他州と同様に)元来ナチス党の地方組織であった大管区(ガウ)と大管区指導者(ガウライター)に取って代わられ、有名無実化していった。 大管区編成時においてはプロイセン州も複数の大管区に分割されている。第二次世界大戦後、連合軍占領期の1947年2月25日にプロイセン州の廃止が布告された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プロイセン州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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